光正寺古墳

光正寺古墳

福岡県糟屋郡宇美町にある前方後円墳が、光正寺古墳(こうしょうじこふん)。昭和28年に発見された古墳で、墳丘長54m、古墳時代前期(3世紀中頃〜後半)の築造。前方部が2段築成、後円部が3段築成で、2段目以上は石葺き。『魏志倭人伝』に登場する不弥国(ふみこく)との関連性も指摘されています。

不弥国の王墓の可能性もある前方後円墳

前方部が2段築成、後円部が3段築成で、2段目以上は石葺き。
後円部に埋葬施設が箱式石棺3基、割竹形木棺1基、土器棺1基が出土しています。

光正寺古墳の築造年代は、大型の箱式石棺を川原石で囲んだ第1主体部から出土した古式の土師器甕の制作年代から3世紀中頃〜後半だと推測されています。
ちょうど中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻、通称『魏志倭人伝』が記されたのも3世紀末なので、福岡市域だと推測される奴国(なこく)から「東行不弥国に至る百里」で不弥国という不弥国ではないかとも推測されています(ただし不弥国がどこにあったのかは今も謎です)。

不弥国に関しては、邪馬台国九州説の場合には、嘉穂説(福岡県飯塚市、立岩遺跡)と宇美説(宇美町)が有力ですが、宇美説を採用すれば、光正寺古墳は不弥国の王墓ということに。
光正寺古墳の調査で「宇美説=粕屋平野説」が不弥国の有力な候補として考えられるようになっています。

一帯は平成12年に公園として整備され、見学が可能。

『魏志倭人伝』に登場の不弥国はどこにあった!?

不弥国は「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家」(奴国から東へ百里の位置で、長官は多模、副官は卑奴母離、1000余の家が並んでいる)。

邪馬台国の所在地論に決着をつけるには、不弥国は邪馬台国への起点であるため、不弥国を解明することがもっとも重要なのですが、残念ながら今もその場所は定かでありません(『魏志倭人伝』に登場する国のうち、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国の所在地は確定していますが、不弥国は九州に存在したとされますが、九州のどこかは諸説あります)。

光正寺古墳
名称 光正寺古墳/こうしょうじこふん
所在地 福岡県糟屋郡宇美町光正寺3-3-4537-11
関連HP 宇美町公式ホームページ
電車・バスで JR博多駅から西鉄バス原田橋行きで33分、深町下車、徒歩4分
ドライブで 九州自動車道太宰府ICから約8km
駐車場 古墳公園駐車場を利用(9:00〜17:00)
問い合わせ 宇美町教育委員会社会教育課 TEL:092-933-2600
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

地図で知る『魏志倭人伝』の旅

奴国までの旅は、ほぼルートがわかってきた!【韓国から狗邪韓国へ】水行し韓国をへて狗邪韓国に至る。7000余里【狗邪韓国から対馬国へ】始めて一海を渡る1000余里。対馬国に至る。1000戸余【対馬国から一支国へ】南、一海を渡る1000余里。一

『魏志倭人伝』に記された、伊都国・奴国・不彌国の都へ!

今回はGoogleマップを使って『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)の旅を試みます。今回は、そのパート2で、一支国・末盧国に続いての九州上陸編。古代史ミステリーの旅を続けましょう。いよいよ九州本土の伊都國末盧國から「東南陸行五百里、到伊都國」(

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ