嬬恋郷土資料館

嬬恋郷土資料館

群馬県嬬恋村鎌原の「日本のポンペイ」と呼ばれ、奇跡的に埋没を逃れ93名の命を救った鎌原観音堂に隣接して建つのが「嬬恋郷土資料館」。天明3年(1783年)旧暦7月8日の浅間山の大爆発で発生した土石なだれで埋没した旧鎌原村から発掘された品々などを展示し、火山災害と当時の生活文化を紹介する博物館です。

発掘調査で出土した遺物を展示

嬬恋郷土資料館

爆発で発生した土石なだれは当時の鎌原村を埋め尽くし、「東洋のポンペイ」、「日本のポンペイ」と呼ばれています。
現在ではキャベツ畑が広がっていますが、この台地は、爆発による土石なだれなどで誕生したもの。

嬬恋郷土資料館に展示される鎌原観音堂やその近くにあった延命寺(爆発の土石なだれに埋没し廃寺に)、十日ノ窪の埋没家屋などの発掘調査による出土品や資料から爆発の恐ろしさを実感できます。

十日ノ窪は、鎌原観音堂前の道を隔てて隣接するエリア。
今は民家の庭や畑になっていますが、昭和54年の発掘調査では、昔の村民の生活用品など約 1200点が出土しています。

1階の映像コーナーでは、天明3年の噴火の悲劇と、浅間山の美しい自然を紹介。
また2階ではキャベツの博物学など嬬恋村の農業を紹介するほか、視聴覚室では「天明3年浅間焼け」に関する映像を放映。
3階は浅間山や白根山を一望にするパノラマ展望室となっています。

特別展示室に展示される縄文時代の貴重な遺跡である今井東平遺跡(嬬恋村今井峯地)出土の黒色磨研注口土器なども必見です。
発掘調査により天明3年(1783年)の時点で、鎌原村では美濃・瀬戸の焼き物が使用されており、北関東における瀬戸物の普及は明治から大正という常識からすれば、鎌原村は盛んな交易があった地だということが推測されるのです。

嬬恋郷土資料館開設当時の昭和58年7月、イタリア文化財省ポンペイ遺跡総監督のジュゼッピーナ・チェルッリ・イレッリ博士らは、嬬恋村の鎌原遺跡など天明3年(1783年)の爆発による浅間焼け遺跡を視察。
以来、嬬恋村の鎌原遺跡は「日本のポンペイ」といわれるようになったのです。
そんな縁もあって、1階の展示室には、イタリアのポンペイ遺跡から発掘された「噴火犠牲者の人型」レプリカも展示されています(日本テレビ放送網から寄贈されたもの)。

ちなみに、嬬恋郷土資料館は、浅間山北麓ジオパークの拠点施設にもなっています。

嬬恋郷土資料館
名称 嬬恋郷土資料館/つまごいきょうどしりょうかん
所在地 群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原494
関連HP 嬬恋村公式ホームページ
電車・バスで JR吾妻線万座・鹿沢口駅から西武高原バス軽井沢行きで鎌原観音堂前下車、徒歩1分。長野新幹線・しなの鉄道軽井沢駅から西武高原バス草津・万座温泉・白根火山方面行きで鎌原観音堂前下車、徒歩1分
ドライブで 上信越自動車道碓氷軽井沢ICから約36km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 嬬恋郷土資料館 TEL:0279-97-3405
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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