【地図を旅する】vol.49 日本一「飛び地」が密集する場所が、関東平野の真ん中に!

埼玉県熊谷市は、夏の気温の「暑さ」を地域資源と捉え、市民の気持ちの熱さ、人情の厚さなどの「あつさ」をキーワードとした「あついぞ!熊谷」 がキャッチフレーズにしています。その熊谷市のなかに、なぜか行田市の飛び地が。それが行田市小敷田地区。しかも日本一飛び地が密集する場所になっています。

熊谷バイパスと行田バイパスの交差点に注目!

飛び地となっている部分は、かつての埼玉県北埼玉郡星宮村(ほしみやむら)の大部分。
明治22年4月1日、町村制施行で、池上村、下川上村、上池守村、下池守村、中里村、小敷田村、皿尾村が合併して星宮村が生まれています。

「昭和の大合併」のピークとなった昭和30年7月20日、行田市へ編入され、さらに10月1日、旧池上村、旧下川上村は熊谷市に再編入となり、現在の飛び地が生じたのです。

国道17号(熊谷バイパス)と国道125号(行田バイパス)の交差点周辺に飛び地が密集し、大小合わせて20近くの飛び地がありましたが、令和5年に飛び地の一部が解消し、現在の総数は16。
それでも飛び地の数が2桁というのは、全国的にもここだけです。
周囲を取り囲む熊谷市側は、熊谷市池上、上之ですが、この大字池上地区は、旧池上村ということに。
行田市は小敷田という大字になり、小敷田地区の一部が飛び地になる状態で旧村名はわからなくなっています。

当時の「行田足袋王国」が飛び地合併を推進!?

ではなぜこんな複雑怪奇な境界線、飛び地が生まれたのかといえば、国が戦後の近代化、経済発展のために半ば強制的に行なった「昭和の大合併」推進で星宮村村民の意見が「熊谷合併派・行田合併派」に分かれたから。
明治22年の町村制施行で誕生した星宮村自体も村内を流れる星川と古宮用悪水路の「星」と「宮」を取って付けた村で、そもそも統一感があったわけではなかったのです。

産業が農業だけという星宮村は財政が困窮していたので合併には前向きでしたが、行田、熊谷のどちらと合併するかで村議会は大混乱。
その結果、「村民の意思を尊重する」という玉虫色の解決案となったため、熊谷との合併の多い地区、集落、あるいは家は熊谷に、行田と主張する地区、集落、家は行田にという結果、行田市の飛び地が複数誕生したというわけです。

単に熊谷市と合併すれば飛び地は生まれません。
なぜ行田を選ぶ人が多かったかといえば、秩父鉄道・行田市駅まで近いこと、そして行田市駅周辺が「行田の足袋(たび)」として繁栄していたことがあげられます。
行田の街全体が足袋生産工場の様相をなし、農閑期に下請けの内職などをする人も多かったのではないかと推測できます(昭和20年代には「行田足袋王国」と称されていました)。
ナイロンの普及で行田の足袋が斜陽化したのは昭和33年のこと。
もし合併が数年遅れていたら違った結果になっていたのかもしれません。

【地図を旅する】vol.49 日本一「飛び地」が密集する場所が、関東平野の真ん中に!
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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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