群馬県藤岡市にある古墳時代中期、6世紀前半の築造と推定される巨大な前方後円墳が七輿山古墳(ななこしやまこふん)。墳丘長145m、東日本で6番目の巨大古墳(全国73位)で、6世紀代の古墳としては東日本最大級のもので、国の史跡になっています。高さ110cmという巨大な円筒埴輪も出土。
東日本で6番目の巨大な古墳
発掘調査で、埴輪(円筒・朝顔型円筒・人物・馬・盾型)、須恵器、土師器(はじき)などが出土。
高さ110cmという円筒埴輪には、7本の筋があり(七条凸帯)、被葬者の身分が高いことの証し(藤岡歴史館に展示)。
『日本書紀』によれば6世紀には現在の藤岡市に緑野屯倉(みどのみやけ)が設置されたことになっています。
屯倉とは、税になる産物の一時置き場で、現在の県庁的な存在(ヤマト王権の直轄領)。
古代、日本の中央集権化の過程で、武蔵国造の乱(古墳時代後期、6世紀に起こった武蔵国造の内乱)で敗北した上毛野氏が、ヤマト王権に屈服し、屯倉が設置されたのだと推測されます。
5世紀後半、毛野国(けのくに)、とくに西毛地区(南西部の高崎・藤岡・安中一帯)には馬を飼育し乗馬技術を持った人が朝鮮半島から入植。
その結果、物資の輸送に海上輸送だけでなく陸路を活用するように変化し、岐阜から東山道を通って様々なも物資が入り、ヤマト王権との交流も活発化したのです。
古墳はそんな時代に築かれたもの。
七輿山という名は、日本三大古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている多胡羊太夫(たごひつじだゆう=出自は不明)の妻女ら7人がここで自害し、輿に乗せて葬ったので「七輿山」という名前になったと伝えられています。
ちなみに昭和10年に実施された群馬県下一斉古墳調査によれば、群馬県内には8423基の古墳が確認され(実際には1万基以上あったと推測されます)、そのうち1198基が藤岡市内にありました。
都市開発で現在では450基ほどとなっているが、この一帯が古代、東日本の政治・文化の中心地域として栄えたことがよくわかります。
国の史跡となった七輿山古墳、白石稲荷山古墳、十二天塚古墳、十二天塚北古墳などは白石古墳群(しろいしこふんぐん)の七輿山支群を構成しています。
白石古墳群
白石古墳群(七輿山支群、稲荷山支群、猿田支群、下郷支群の4つで構成)には、前方後円墳(七輿山古墳、白石稲荷山古墳)、方墳(白石稲荷山古墳の倍塚)、円墳(平井地区1号古墳、伊勢塚古墳)など、さまざまな形態の各時代の古墳があり、さながら「古墳のフィールドミュージアム」という雰囲気になっています。
七輿山古墳 | |
名称 | 七輿山古墳/ななこしやまこふん |
所在地 | 群馬県藤岡市上落合 |
関連HP | 藤岡市公式ホームページ |
電車・バスで | JR群馬藤岡駅からバスで30分、七輿山古墳入口下車、徒歩1分 |
ドライブで | 上信越自動車道藤岡ICから約4.5km |
駐車場 | 七輿の門駐車場 |
問い合わせ | 藤岡市教育委員会文化財保護課 TEL:0274-23-5997 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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