姫路城・化粧櫓

播磨姫路藩初代藩主となった本多忠政(ほんだただまさ)が、嫡男・本多忠刻(ほんだただとき)と千姫のために居館となる武蔵野御殿を築き、西の丸に、千姫の自由になる建物を設けたのが化粧櫓。徳川家から輿入れ時に賜った化粧料で造ったことが名の由来といわれます。国の重要文化財。

千姫が男山の天満宮を遥拝したと伝わる櫓

姫路城之図・化粧櫓

徳川家康の孫娘、千姫(父は徳川秀忠、母は継室の江)は、1603(慶長8)年、徳川家と豊臣家の縁組のため、7歳で豊臣秀頼と政略結婚。
1615(慶長20)年、大坂夏の陣では、徳川家康の命により落城する大坂城から救出され、1616(元和2)年、七里の渡しで見初めた(諸説あり定かでありません)という本多忠刻の正室となり、桑名城へ。

その時、将軍家から千姫与えられたのが10万石の化粧料。
1617(元和3)年、姫路へと転封になったのに伴い、姫路城西の丸に築いたのが化粧櫓というわけなのです。

播磨姫君と呼ばれるようなった千姫が朝夕に男山に千姫が創建した天満宮を遥拝する時に休息し、化粧を直した櫓と伝えられています。
千姫に仕えた侍女たちが居た場所が西の丸長局(百間廊下)で、実際に千姫が男山天満宮を遥拝したのは西の丸長局からです。

内部からは、城内の天守群、西ノ丸の各櫓、三の丸などが一望できますが公開時期が限られているのでご注意を。

千姫は、常に不便な櫓で生活していたわけでなく、日常生活は下屋敷である三の丸の武蔵野御殿で生活していました。

千姫ゆかりの愛のパワースポットのように喧伝(けんでん)される場合もありますが、長男・幸千代は3歳で夭逝、1626(寛永3)年には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と出て、姫路から江戸に移り住んでいます。
出家して天樹院と号し、江戸城内・竹橋御殿で余生を送り、鎌倉・東慶寺の伽藍の再建などにも尽力しています。
墓所は伝通院(東京都文京区小石川3丁目)との弘経寺 (ぐぎょうじ/茨城県常総市)にあります。

姫路城・化粧櫓
名称姫路城・化粧櫓/ひめじじょう・けしょうやぐら
Kesho-Yagura(Cosmetic Tower),Himeji Castle
所在地兵庫県姫路市本町68
関連HP姫路城公式ホームページ
電車・バスでJR・山陽電鉄姫路駅から徒歩15分
ドライブで山陽自動車道山陽姫路東ICから約6km
駐車場市営大手門駐車場(600台/有料)、市営姫山駐車場(250台/有料)、市営城の北駐車場(150台/有料)
問い合わせ姫路城管理事務所 TEL:079-285-1146/FAX:079-222-6050
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姫路城

日本の近世城郭のなかでも、築城当時の姿を残す唯一の存在といわれる姫路城。歴史は古く、1333(元弘3)年、播磨の守護職・赤松則村によって、砦が築かれたのが始まり。羽柴秀吉により、さらに池田輝政が現在の城郭を建築しました。天守群は国宝に、そし

男山千姫天満宮

男山千姫天満宮

兵庫県姫路市にある千姫ゆかりの神社が男山千姫天満宮。元和2年(1616年)、本多忠刻の正室となった千姫。徳川家の信頼厚い本多家は、桑名藩から西国を睨む姫路藩へと移りますが、元和9年(1623年)、千姫が本多家の繁栄、家族の健康を願って建立し

千姫の小径

千姫の小径

兵庫県姫路市、姫路城を取り囲む中堀の西側、船場川との間の中州部分に造られた遊歩道が千姫の小径。起点である市乃橋のたもとには、千姫の像も立っています。千姫は2代将軍・徳川秀忠の娘で、本多忠刻と再婚。姫路城に暮らし、播磨姫君と呼ばれていました。

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