古代大輪田泊の石椋

古代大輪田泊の石椋

兵庫県神戸市兵庫区にある平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた大輪田泊(おおわだのとまり)の遺構。石椋(いしくら)とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設。古代大輪田泊の石椋と名付けられた花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に発見された巨石です。

古代の国際貿易港遺構と推測できる巨石

古代大輪田泊の石椋

昭和27年の新川運河浚渫工事の際、重量4tの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見されたため、古代の港湾施設と判明しています。
石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年に確認調査が行なわれ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代の中頃の大溝と建物の一部を発見。
出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定され、8世紀後半から10世紀前半にかけての大輪田泊の石椋の石材であった可能性が高まったのです。

突出する和田岬によって南西風と潮流から守られる大輪田は、南東からの風と潮流に弱点があったため、防波堤を築いてこれを防御。
朝廷から造大輪田船瀬使(ぞうおおわだのふなせし)が派遣され、波浪で破壊されるたびに修築を繰り返しています。

『日本後紀』によると、弘仁3年(812年)、嵯峨天皇は大輪田泊に港の修築使を派遣し、勅命で日本初の国営事業として泊(港湾施設)の修築が行なわれ、天長5年(828年)には淳和天皇が空海を泊の造船瀬所別当に任じ、港湾整備の指導監督にあたらせています。

古代大輪田泊の石椋
名称 古代大輪田泊の石椋/こだいおおわだのとまりのいしくら
所在地 兵庫県神戸市兵庫区船大工町
電車・バスで 地下鉄海岸線中央市場前駅から徒歩4分。または、JR兵庫駅から徒歩14分
ドライブで 阪神高速道路3号神戸線柳原ランプから約600m
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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