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加藤さんのルーツを探せ!

「大名の姓は一般人には少ない」という定説を打ち破り、加藤さんは全国10位の大姓で、日本全国に89万人の加藤さんが暮らしています。中部地方では加藤さんは第3位で、岐阜周辺や、名古屋市では多分、同学年にたくさんの加藤さんが学んでいます。加藤清正も実は尾張国、現在の名古屋市出身です。

大名姓なのに加藤さんは全国10位の大姓!

加藤清正

加藤さんの有名人と聞いて、熊本県の人なら誰もがあげるのが加藤清正(かとうきよまさ)。
熊本城を築城し、初代熊本藩主となった加藤清正は、地元では「清正公」と呼ばれ、熊本城内の加藤神社祭神として今も尊崇されています。

歴女なんかが注目するのが、豊臣秀吉の直臣で、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり=羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いで活躍の秀吉軍の7人)のひとり、加藤嘉明(かとうよしあきら=加藤左馬助)。
小田原攻めや九州征伐、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも参陣し、加藤清正同様に武断派だったことで、関ヶ原の戦いでは石田三成と対立、後に会津藩主となっています。

その加藤清正は尾張国中村(名古屋市中村区)、そして加藤嘉明は三河国幡豆郡(はずぐん=現・愛知県西尾市)でともに現在の愛知県出身。
愛知県には今も加藤さんがゾロゾロいて、加藤ミリヤは愛知県豊田市、加藤晴彦、かとうかず子(本名・加藤和子)は名古屋市、加藤あいは清須市の出身。
ということで、愛知県では、鈴木さんに次いで加藤さんが多い土地柄です。

熊本出身の芸能人の加藤さんは思いあたらないほどで、実際にも熊本県には加藤さんは少ない場所で、ルーツはやはり、愛知県・岐阜県内、あるいはその近隣と推測できます。

加賀+藤原=加藤が伊勢(三重県)へ移住

加藤さんは佐藤さん(佐野の藤原氏/諸説あります)、伊藤さん(伊勢の藤原氏)と同じで、藤原氏の一族。
加藤さんでも知らない人が多いのですが、加藤さんの「加」は加賀、つまりは現在の石川県、「藤」は藤原からきたものと推測できます。

加藤さんの初代と思われるのは平安時代の半ば、源頼義(みなもとのよりよし)に仕えた武士・藤原景道(ふじわらのかげみち/景通とも)で、加賀介(かがのすけ/長官=守、次官=介、現在の副知事的な存在)となったことから加賀の藤原を略して「加藤」を称するようになったというのが定説。
ここに、藤原北家利仁流(ふじわらほっけとしひとりゅう)加藤氏が誕生したというわけです。

初めて加藤姓を名乗った藤原景道(加藤景道)の子の加藤景清(かとうかげきよ)が伊勢に移り、その子・加藤景員(かとうかげかず)、孫の加藤景廉(かとうかげかど)は平氏との争いにより伊豆国に下り、源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉の御家人となっています。

伊勢加藤氏の館は、安濃津(あのうつ=津にあった古代からの港)の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったともいわれますが、残念ながらその場所は特定されていません。

安濃津は、博多津(福岡県)、坊津(鹿児島県)と並ぶ平安時代頃の「日本三津」。
平清盛の父、平忠盛もこの地で生まれ、安濃津を抑えたことで平家隆盛のきっかけをつくっているのです。

当時の加藤さんのライバルが平忠盛・平清盛親子だったというわけです。
三重県亀山市辺法寺町にある不動院辺法寺は、加藤景道の子・加藤景清が創建したと伝えられる古刹。
まさしく全国の加藤さんのルーツで、近くの野元坂(やげんざか)には「加藤景清の館跡」と伝えられる場所もあるので一度は訪問を。

三重県でも加藤さんは5位(1.23%)となる大姓なので、ルーツからの歴史を連綿と受け継ぐ加藤さんもいるのかもしれません。

加藤さんの重要なルーツが、岐阜県恵那市岩村に

加藤景清の孫・加藤景廉(かとうかげかど)は、源頼朝の伊豆での平家追討の旗揚げ際、平氏の伊豆国目代(もくだい=代官的な役割を担った)で伊豆を守った山木兼隆(やまきかねたか)を討ち取るという大功を立てています。

美濃の岩村城(岐阜県恵那市岩村)は「日本三大山城」にも数えられる名城ですが、鎌倉幕府の御家人・加藤景廉が創築の祖(加藤景廉の長男・遠山景朝が築城)ということで、恵那市岩村町の八幡神社は加藤景廉が祭神となっています。
御家人として活躍した加藤景廉は、荘園として美濃国恵那郡の遠山荘を拝領。
長男の加藤景朝が相続して地頭となり、遠山を名乗って岩村城を築城したのです。
つまり、岩村は加藤さん、そして遠山さんのルーツのひとつ。

加藤さんは、こうして、鎌倉時代に伊勢(三重県)から東海地方各地に広がっていったのだと推測できます。

岩村城

標高721mの城山の山頂に築かれ、高低差180mの地形を活かした堅固な山城が岐阜県恵那市岩村町にある岩村城。大和・高取城、備中・松山城と並び、「日本三大山城」のひとつに数えられています。地形的な要因で霧が立ちこめやすいことから「霧ケ城」とも

加藤嘉明のルーツは愛知県西尾市に

愛知県西尾市上永良町には中世の城、上永良城(かみながらじょう)の城跡が現存。
地元の解説では、鎌倉時代中期、藤原氏高房流9代・加藤景俊が関東から三河国永良郷加気村に来住したことに始まるとのこと。
その後裔となる加藤嘉明も永良郷加気村で生まれていますが、父・加藤教明(かとうのりあき)が三河一向一揆の際に、松平元康(後の徳川家康)に反旗を翻したことから(三河は浄土宗が支配的で、多くの家臣が一揆方に加わっています)、流浪し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)配下となっています。

上永良城跡は現在、神明社となり、「加藤嘉明生誕の地」碑が立つほか、国の天然記念物に指定されるシイの巨木が聳えています。
愛知県の加藤さんなら、重要なルーツかもしれません。

加藤嘉明は愛媛県松山市でも有名人。
加藤嘉明が築城した松山城の天守に上れば、西日本最高峰の石鎚山や、瀬戸内海の島々まで見渡せる絶景を得ることができます。

加藤嘉明の子孫は、近江水口藩(現・滋賀県甲賀市)2万石の藩主となっています。

加藤清正は名古屋市出身

加藤清正の生誕地に建つ妙行寺・加藤清正公像

一方、天下の名城、熊本城を築いた築城の名手・加藤清正は、関白・藤原道長(ふじわらのみちなが)の末裔である藤原北家道長流を自称。
永禄5年(1562年)、尾張国愛智郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれていますが、実は豊臣秀吉と同じ「町内会」。
しかも羽柴秀吉の生母・大政所(おおまんどころ)と加藤清正の母は、従姉妹(いとこ)。
近江国長浜城主となったばかりの秀吉に仕えて、秀吉の天下取りと足並みをそろえて頭角を表し、出世しています。

加藤清正生誕の地(名古屋市中村区中村町木下屋敷22)には日蓮宗正悦山妙行寺が建っていますが、清正は熱心な法華経(ほけきょう)の信者でした。

加藤清正は、慶長15年(1610年)、名古屋城築城の際に余材と普請小屋を貰いうけ、先祖の供養に寺を加藤清正生誕の地に移築したと伝えられており、まさに加藤清正ゆかりの地。

時は前後っしますが、天正16年(1588年)、太閤秀吉は加藤清正を呼んで、肥後半国と讃岐国のどちらかを選べと迫ります(肥後国領主・佐々成政は豊臣秀吉の怒りにふれて切腹、讃岐国領主・尾藤知定も九州の役での咎めを受け、北条へと逃げていてともに領主不在でした)。

当時、加藤清正は弱冠27歳、まだ3000石の侍大将という身分でしたが、肥後を選んで、いきなり25万石の大大名とまで出世。

ところが、大大名となった加藤清正は調度品がまったく不足。
そこで豊臣秀吉は北条へと逃亡した尾藤家の武具、調度一切を清正与えているのです。
ここから加藤清正は、調度品に付いていた尾藤家の家紋桔梗・折墨の紋と加藤家本来の一重菊を併用するようになったのです。
意外にも合理的だった、戦国武将ということに。

熊本では尊崇される加藤清正ですが、出身地、名古屋市では三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の陰に隠れて、名古屋城を築いた人のイメージですが、名古屋城内には加藤清正銅像が能楽堂前、名古屋城東南隅櫓近くの2ヶ所に築かれています。
熊本人にとってけしからんことに、いずれも清正と呼び捨てで、名古屋では生誕の地、妙行寺・加藤清正公像を除いて清正公ではありません。

妙行寺(加藤清正生誕の地)

愛知県名古屋市中村区中村町にある日蓮宗の寺、正悦山妙行寺。かつては東に200mほどのところにあり本行寺という真言宗の寺でしたが日蓮宗に改宗し妙行寺に。慶長15年(1610年)の名古屋城築城の際、普請の命を受けた加藤清正は築城の余材と普請小屋

熊本には加藤神社も鎮座し、尊崇されています

日本三名城のひとつに数えられる熊本城。
清正流と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられており、天守からは、金峰山や本妙寺、立田山、阿蘇山の眺めがバツグンです。

この熊本城を眺めるのに最適の地が、熊本城内にある加藤神社で、加藤神社前からは手前に迫力ある石垣の宇土櫓、奥に天守が聳えています。

当然、祭神は加藤清正で、土木建築や勝運にご利益があるというのもなるほどと思わせます。
熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる大恩人が加藤清正。
加藤清正を祭神とする加藤神社を尊崇するのは当然ですが、全国の加藤さんのパワースポットとしても間違いありません。

加藤神社

明治4年、神仏分離が行なわれた際に熊本城内に創建された神社が加藤神社(当時は錦山神社と称していました)。熊本城内に陸軍の熊本鎮台が置かれるということで城外の新堀町(現在の在京町)に移転しましたが、昭和37年に再び城内の本丸北側に戻されていま

岐阜の加藤さんのルーツは愛知県瀬戸市?

城といえばもうひとつ、美濃国を発祥とする藤原北家利仁流の伊予大洲藩加藤氏の居城・大洲城(愛媛県大洲市)があります。
平成16年に木造で復元された天守は、重要文化財の台所櫓、高欄櫓と多聞櫓で連結し、全ての建物を観覧することが可能。
最近では『大洲城キャッスルステイ』(泊まれる城)としても話題になっています。

伊予の小京都、大洲の中心に位置する大洲城には、元和3年(1617年)、伯耆国・米子から加藤貞泰(かとうさだやす)が入城後、明治の廃藩置県まで加藤氏の居城となっていました。
大名配下の城下町には大名姓(大洲では加藤姓)は恐れ多いと、この大洲市にも加藤さんは少ないはずです。

また、「瀬戸焼の祖」として尾張国瀬戸(愛知県瀬戸市)の加藤景正(かとうかげまさ/鎌倉時代初期の陶工)がいて、加藤景廉の弟と伝わるが定かでありません。
通称は四郎左衛門(しろうざえもん)、これを略して地元では今も藤四郎(とうしろう)と親しみを込めて呼ばれています。
瀬戸、美濃では陶祖といえばこの加藤景正を指し(瀬戸物の陶祖)、瀬戸市の深川神社(瀬戸の産土神)東隣の陶彦社(すえひこしゃ)に祭神として祀られています。

その加藤景正(藤四郎)は貞応2年(1223年)、道元禅師に随行し宋に渡り、6年間、先進の地、宋で陶芸を学んでいます。
帰国後、焼き物に適した土を求めて全国を行脚しますが、瀬戸・深川神社参拝の折に神社の巽の方角(南東)に良土ありとのお告げを受け、瀬戸に窯を開いたと伝えられます。

国の重要文化財となった「陶製狛犬」は、深川神社のお告げに感謝して奉納したもの。
瀬戸物と呼ばれる陶器の世界的にも有名な産地(瀬戸・美濃)はこの加藤景正がルーツとなり、瀬戸、美濃(岐阜)界隈の加藤さんの重要なルーツといえるでしょう。

陶彦社(深川神社)

愛知県瀬戸市深川町、深川神社の境内社が陶彦社(すえひこしゃ)。瀬戸陶業の始祖、藤四郎(とうしろう=加藤景正)の偉業を称え文政7年(1824年)に創建された社で、4月の第3日曜には『陶祖祭』も行なわれ、その初日には、陶物(すえもの)と呼ばれる

加藤さんは東海地方が圧倒的に多い

現在、加藤さんは東海地方を中心に全国的に分布していますが、熊本県など九州には少ない。

岐阜県では大姓2位、愛知県では2位、三重5位、西日本では10位以内に入らず、中部地方だけに突出した名前です。
それなのに大姓10位なのは、東海地方が加藤さんだらけのためかもしれません。

代表家紋は「蛇の目」。
ヘビの目に似ているが、実は弓の弦を巻き付ける革製の環を図案化した尚武紋です。
加藤清正は「南無妙法蓮華経」の旗印に「蛇の目」の赤烏帽子で当たる所敵なしと槍を振るいました。
加藤清正系はその蛇の目に桔梗、加藤嘉明系は蛇の目に下り藤。
ほかに、上り藤や藤に加文字を加えた加藤藤、加藤兜、三つ剣蛇の目、桔梗、千木、柏、巴など。

取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です

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掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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