佐藤さんのルーツを探せ!

佐野駅北東に聳える唐沢山は、桜の後に咲くツツジが実に見事。かつて唐沢城の本丸があったその山頂には、古い歴史を伝える唐澤山神社が鎮座している。
祭神は、「俵藤太(たわらのとうだ)のムカデ退治」として有名な近江の三上山(みかみやま)に棲む大ムカデを退治した藤原秀郷(ふじわらひでさと)で、秀郷は全国で200万人を超える佐藤姓の祖でもある。

佐藤さんのルーツは、藤原秀郷

佐藤さんのルーツのひとつ、唐澤山神社

佐藤さんのルーツのひとつ、唐澤山神社


 
藤原北家の流れをくむ藤原秀郷は、東国の暴れん坊・平将門の乱を鎮圧した後、下野国(しもつけのくに=現在の栃木県)と武蔵国の国司兼鎮守府将軍に任ぜられた。

その後、秀郷から6代目の左衛門尉藤原公清(さえもんのじょうふじわらきみきよ/左衛門尉=律令制下の官職で左衛門府の判官)のとき、藤原の藤と左衛門尉の左を取って「佐藤」と名乗ったとも、下野佐野から佐藤といったともいわれるが、いずれにしろここに初めて佐藤姓が誕生したわけである。
(注/藤原秀郷は、927(延長5)年、下野国の治安を維持する押領使に任じられ唐沢山に城を築いた(現在の唐澤山神社)。平将門の追討で功を上げ下野守になり、その後、子孫が代々城主となっている)

もうひとつのルーツは、飯坂温泉!

やがて、秀郷流の佐藤一族は相模、伊豆、常陸、美濃、甲斐、尾張、伊勢などに広がり、とくに奥州藤原氏に属した佐藤氏が目覚しい発展をする。

1180(治承4)年、源義経が頼朝のもとに馳せ参じた時、藤原秀衡は、佐藤継信(さとうつぐのぶ)、忠信の兄弟を義経につけた。以来兄弟は義経の四天王として活躍するのだが、継信は屋島の合戦において義経の身代わりとなって壮烈な最期を遂げ、忠信は翌年吉野山から京都に潜伏中に襲われ自刃する。

奥州の佐藤氏の根拠地である陸奥国信夫郡(しのぶぐん)大鳥城は、現在の福島市飯坂温泉であり、温泉街の外れに佐藤一族の菩提寺である医王寺がある。継信・忠信の石塔は「粉にして飲むと体が強くなる」といういい伝えにより、薬として利用され、石塔の半ばほどが大きく削り取られている。寺紋は佐藤氏の家紋・源氏車である。

佐藤さんの東北のルーツは医王寺

佐藤さんの東北のルーツは医王寺

また、このあたりの佐藤姓の人は、みんな佐藤兄弟の子孫だと称しているらしいが、その真偽はともかく、佐藤姓は圧倒的に東北地方に多い。西日本では佐藤姓は比較的少ないが、それでも新潟、徳島、大分ではナンバーワンの姓となっている。

その他、越後小千谷(おぢや)の藤原流佐藤氏、美濃に旗本の伊深佐藤氏があり、さらに歌人の西行法師は紀伊の佐藤氏の出で、もとは佐藤義清(さとうのりきよ)といった。

家紋は源氏車と下り藤、上り藤、藤巴。ほかに三本傘、柏、菱、橘、山桜、水車など。
ちなみに、『源氏物語』の御所車を別名源氏車といい、源氏車の紋はこの車輪をかたどっている。

新形三十六怪撰「藤原秀郷龍宮城蜈蚣射るの図」

新形三十六怪撰「藤原秀郷龍宮城蜈蚣射るの図」

協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)

 

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