加藤さんのルーツを探せ!

加藤さんの有名人と聞いて、熊本県の人なら誰もがあげるのが加藤清正。熊本城を築城し、初代熊本藩主となった加藤清正は、地元では「清正公」と呼ばれている(上の肖像画は清正)。
歴女なんかが注目するのが、秀吉の直臣で、賤ヶ岳の七本槍のひとり、加藤嘉明(かとうよしあきら=加藤左馬助)。小田原攻めや九州征伐、朝鮮遠征などに参加し会津藩主となっている。

大名姓なのに加藤さんは全国11位の大姓!

「大名の姓は一般人には少ない」という定説を打ち破り、加藤さんは全国11位の大姓。
ちなみに加藤清正は尾張国中村、加藤嘉明は三河国幡豆郡でともに現在の愛知県出身。
愛知には今も加藤さんがゾロゾロいて、加藤ミリヤは愛知県豊田市、加藤晴彦、かとうかず子(本名・加藤和子)は名古屋市、加藤あいは清須市の出身。
加藤清正公を祀る加藤神社もある熊本出身の芸能人の加藤さんは見あたらない(実は熊本には加藤さんは少ない)。

加賀+藤原=加藤が伊勢(三重県)へ移住

加藤氏は藤原氏の一族。加藤氏の「加」は加賀、「藤」は藤原からきたものといわれる。
加藤氏の初代と思われるのは源頼義に仕えた武士・藤原景道(かげみち/景通とも)で、加賀介(かがのすけ/長官=守、次官=介)となったことから加賀の藤原を略して「加藤」を称するようになったという。
ここに、藤原北家利仁(としひと)流加藤氏が誕生した。

天正11年(1583) 、信長の後継を争う天下分け目の大決戦「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」。静かな山々には鬨(とき)の声がこだまする。
近江の国伊香郡の賤ヶ岳付近(現在の滋賀県長浜市)で繰り広げられた秀吉と柴田勝家の決戦で、一躍名を挙げた賤ヶ岳七本槍のなかに、加藤清正、加藤嘉明のふたりがいた。

初めて加藤姓を名乗った藤原(加藤)景道の子の加藤景清(かとうかげきよ)が伊勢に移り、その子・加藤景員(かとうかげかず)と孫の加藤景廉(かとうかげかど)は平氏との争いにより伊豆国に下り、頼朝の挙兵に参加し、鎌倉の御家人となる。
伊勢加藤氏の館は、安濃津(あのうつ=津にあった古代からの港)の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったともいわれるが、その場所は特定されていない。
安濃津は、博多津(福岡県)、坊津(鹿児島県)と並ぶ「日本三津」。平清盛の父・忠盛もこの地で生まれ、安濃津を抑えたことで平家隆盛のきっかけをつくっている。
まあ、当時の加藤さんのライバルが平忠盛・清盛親子だったわけ。
三重県亀山市辺法寺町にある不動院辺法寺は、藤原(加藤)景道の子・加藤景清が創建したと伝えられる古刹。まさしく加藤さんのルーツで、近くの野元坂(やげんざか)には「加藤景清の館跡」と伝えられる場所もある。

加藤景清の孫・加藤景廉は、源頼朝の伊豆での平家追討の旗揚げ時に、平氏の伊豆国目代(もくだい=代官的な役割を担った)で伊豆を守った山木兼隆(やまきかねたか)を討ち取るという大功を立てている。美濃の岩村城は加藤景廉が創築の祖(加藤景廉の子・遠山景朝が築城)ということで、恵那市岩村町の八幡神社は加藤景廉が祭神だ。
こうして伊勢から尾張や三河、美濃、さらに遠江、伊豆にかけて一族は広がっていく。

岩村城

2017年3月26日

加藤嘉明のルーツは愛知県西尾市に

そして加藤景廉の後裔となる尾張の加藤氏から加藤嘉明が生まれる。
愛知県西尾市上永良町には中世の城、上永良城跡がある。
地元の解説では、鎌倉時代中期、藤原氏高房流9代・加藤景俊が関東から三河国永良郷加気村に来住したことに始まる。
その後裔となる加藤嘉明も永良郷加気村で生まれるが、父・教明が家康に反旗を翻したことから、流浪し、嘉明は秀吉配下となった。

上永良城跡は現在、神明社となり、「加藤嘉明生誕の地」碑が立つほか、国の天然記念物に指定されるシイの巨木が聳えている。
愛知県の加藤さんならここは重要なルーツといえよう(Googleマップ参照)。

加藤嘉明は愛媛県松山市でも有名人。
加藤嘉明が築城した松山城の天守閣に立てば、西日本最高峰の石鎚山や、瀬戸内海の島々まで見渡せる絶景が得られる。

加藤清正は名古屋市出身

一方、天下の名城熊本城を築いた加藤清正は、関白藤原道長の末裔である藤原北家道長流。
永禄5年(1562)、尾張国愛智郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれている。
豊臣秀吉と同じ「町内会」。

加藤清正生誕の地(名古屋市中村区中村町木下屋敷22)には日蓮宗正悦山妙行寺が建っている。

慶長15年(1610)、名古屋城築城の際に余材と普請小屋を貰いうけ、先祖の供養に寺を加藤清正生誕の地に移築したと伝えられる。
時は前後するが、天正16年(1588)、太閤秀吉は加藤清正を呼んで、肥後半国と讃岐国のどちらかを選べという(肥後国領主・佐々成政は秀吉の怒りにふれて切腹、讃岐国領主・尾藤藤甚右衛門知定も北条へと逃げていてともに領主不在だった)。
当時、清正は弱冠27歳、3000石の侍大将だったが、肥後を選んで、いきなり25万石の大大名となる。
ところが、清正は調度品がまったく足りない。そこで秀吉は北条へと逃亡した尾藤家の武具、調度一切を清正与えた。
ここから清正は、調度品に付いていた尾藤家の家紋桔梗・折墨の紋と加藤家本来の一重菊を併用するようになったのだという。

加藤清正の生誕地に建つ妙行寺・加藤清正公像
加藤清正の生誕地に建つ妙行寺・加藤清正公像

熊本には加藤神社もあるぞ

日本三名城のひとつに数えられる熊本城。清正流と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられており、天守からは、金峰山や本妙寺、立田山、阿蘇山の眺めが素晴らしい。

この熊本城を眺めるのに最適の地が、熊本城内にある加藤神社で、加藤神社前からは手前に迫力ある石垣の宇土櫓、奥に天守閣が聳える。
当然、祭神は加藤清正で、土木建築や勝運にご利益があるというのもなるほどと思わせる。
熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる大恩人が加藤清正。加藤清正を祭神とする加藤神社を尊崇するのは当然だが、全国の加藤さんのパワースポットにも間違いない。
逆に愛知県、とくに名古屋市だと、加藤清正は「築城担当の大名」くらいの位置づけなのが面白い。三英傑(信長・秀吉・家康)というスーパースターの陰に隠れてしまうのだ。

熊本城

岐阜の加藤さんのルーツは瀬戸市?

城といえばもう一つ、美濃国を発祥とする藤原北家利仁流の伊予大洲藩加藤氏の居城大洲城がある。平成16年に木造で復元された天守閣は、重要文化財の台所櫓、高欄櫓と多聞櫓で連結し、全ての建物を観覧することができる。
伊予の小京都、大洲の中心に位置する大洲城には、元和3年(1617)米子から加藤貞泰が入城後、明治まで加藤氏の居城となった。
大名配下の城下町には大名姓(大洲では加藤姓)は恐れ多いと少ないはず。

その他の加藤氏としては、藤原北家利仁流近江水口藩主や、羽前・村山郡を発祥とする最上氏の家臣、常陸の益子氏家臣、筑後の宇都宮氏家臣、黒田長正家臣などが知られている。

また、「瀬戸焼の祖」として尾張国瀬戸(愛知県瀬戸市)の加藤景正(鎌倉時代初期の陶工)がいる加藤景廉の弟と伝わるが定かでない。
通称は四郎左衛門(しろうざえもん)。これを略して地元では今も藤四郎(とうしろう)と呼ばれている。
瀬戸、美濃では陶祖といえばこの加藤景正を指し、瀬戸市の深川神社(瀬戸の産土神)東隣の陶彦(すえひこ)神社に祭神として祀られている。

加藤景正(藤四郎)は貞応2(1223)年、道元禅師に随行し宋に渡り、6年間、先進の地、宋で陶芸を学ぶ。
帰国後、焼き物に適した土を求めて全国を行脚するが、深川神社参拝の折に神社の巽の方角(南東)に良土ありとのお告げを受け、瀬戸に窯を開いた。
国の重要文化財となった「陶製狛犬」は、深川神社のお告げに感謝して奉納したものだという。
瀬戸物と呼ばれる陶器の世界的にも有名な産地(瀬戸・美濃)はこの加藤景正がルーツとなる。

瀬戸、美濃の加藤さんの重要なルーツだろう。

瀬戸焼のルーツ・藤四郎を祀る陶彦神社は、文政年7(1824)の創建
瀬戸焼のルーツ・藤四郎を祀る陶彦神社は、文政年7(1824)の創建

現在、加藤姓は東海地方を中心に全国的に分布しているが、九州には少ない。

岐阜県では大姓一位、愛知県では1位、他に三重、福井、東京などに多く見られる。

代表家紋は「蛇の目」。
ヘビの目に似ているが、実は弓の弦を巻き付ける革製の環を図案化した尚武紋である。
加藤清正は「南無妙法蓮華経」の旗印に「蛇の目」の赤烏帽子で当たる所敵なしと槍を振るったのである。
加藤清正系はその蛇の目に桔梗、加藤嘉明系は蛇の目に下り藤。他に、上り藤や藤に加文字を加えた加藤藤、加藤兜、三つ剣蛇の目、桔梗、千木、柏、巴など。

協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)

 

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