鹿児島県鹿児島市清水町にある幕末に築かれた台場の跡が、祇園之洲台場跡。生麦事件に続く、薩英戦争で、鹿児島城を守備する祇園之洲台場は主戦場となっています。平成22年の発掘調査で、薩英戦争当時の石垣、砲座、土塁などが広く残存していることが確認されています。
薩英戦争で主戦場となった祇園之洲砲台の跡
文久2年(1862年)、武蔵国生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)の東海道で、薩摩藩の大名行列に誤って馬で乗り込んだイギリス人を無礼討ちにした生麦事件が勃発。
イギリス政府は艦隊を錦江湾に送り、文久3年7月2日〜7月4日(1863年8月15日〜8月17日)、薩英戦争へと発展します。
薩摩藩は 天保15年(1844年)以降、外国船排斥のため領内に砲台を築いていますが、島津斉彬(しまづなりあきら)が藩主になると、洋式築城書を参考に、鹿児島城防備のため祇園之洲台場を築いています。
薩英戦争時に、砲台の建造と大砲製造を主導したのは、薩摩藩の摂海防禦御台場築造御用掛に任命された折田要蔵(おりたようぞう=明治維新後は湊川神社の初代宮司に/NHK大河ドラマ『青天を衝け』では徳井優が好演)です。
祇園之洲台場には、薩英戦争時に6門の大砲が備えられていましたが、イギリス艦隊は第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)に自在砲(110ポンドアームストロング砲)の集中砲火を浴びせています(祇園之洲砲台の大砲はほとんどが大破)。
この集中砲火から砲台を守ったのが胸壁で、現在も高さ1.2m、全長115mの胸壁が現存しています。
凝灰岩で築いた胸壁の外側を盛り土で強化し、艦砲射撃に耐える構造になっています。
実戦ではかなり破壊されたため、発掘調査から薩英戦争後に破壊された胸壁を修復したことも判明しています。
祇園之洲台場跡一帯は埋め立てが進み、幕末当時の景観(海への眺望)は残されていません。
祇園之洲台場跡一帯は、石橋記念公園として整備され、稲荷川を渡った南側には石橋記念館、橋を渡った東側(海側)には祇園之洲公園があり、ザビエル上陸記念碑が立っています。
また、祇園之洲台場の北にはアーチ石造橋の高麗橋が復元されているので、この高麗橋を目印に訪れるのが、台場への近道です。
薩摩藩が幕末に築いた台場
薩摩藩が幕末に領内に構築した台場は、島津斉興(しまづなりおき)の藩主時代に築かれたものが最初。
最も早いものは、天保15年(1844年)に築かれた松山台場(指宿市山川、山川港の外)とされ、同じ年には枕崎台場(枕崎市)も築かれています。
弘化4年(1847年)、指宿大山崎(指宿市)、山川権現ヶ尾(指宿市山川)、佐多(南大隅町佐多)、小根占(南大隅町根占)にも台場を構築。
嘉永3年(1850年)には、川尻砂揚場 (天保山砲台)も完成、上町向築地(鹿児島市)の薩摩藩鋳製方で実戦的な対艦砲撃に有効な80ポンドのカノン砲の鋳造に成功しています。
嘉永3年(1850年)〜嘉永4年(1851年)には、知林ヶ島(指宿市)、垂水(垂水市)、串木野羽島(いちき串木野市)、内之浦(肝付町内之浦)、桜島(鹿児島市)、久志(南さつま市坊津)、秋目(南さつま市坊 津)、出水(阿久根市)、阿久根(阿久根市)に台場を構築。
嘉永4年(1851年)、島津斉彬が藩主になると、洋式築城書を参考にして、鹿児島城を防備する錦江湾沿いの台場の強化を行ない、嘉永6年(1853年)、祇園之洲台場(鹿児島市)、大門口台場(鹿児島市)、安政元年(1854年)、新波止台場(鹿児島市)が築造されています。
薩英戦争での薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻、中破2隻、旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人に及び、開戦から9日後には横浜港に戻っています。
祇園之洲台場跡 | |
名称 | 祇園之洲台場跡/ぎおんのすだいばあと |
所在地 | 鹿児島県鹿児島市清水町26 |
関連HP | 鹿児島市公式ホームページ |
電車・バスで | JR鹿児島駅から徒歩15分 |
ドライブで | 九州自動車道鹿児島北ICから約6.2km。または、鹿児島東西道路田上ICから約7km |
駐車場 | 石橋記念公園駐車場(100台/無料) |
問い合わせ | 石橋記念公園 TEL:099-248-6661/FAX:099-248-6662 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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