高知城は、1601(慶長6)年から10年の歳月を費やし、土佐藩の初代藩主・山内一豊(やまうちかつとよ)が築城した平山城。現存する天守は、1727(享保12)年に城下の大火の延焼で焼失後、1753(宝暦3)年に再建されたもの。天守、詰門、多聞櫓、追手門など現存する15棟は、国の重要文化財、「日本100名城」に選定。
初代土佐藩主・山内一豊が築城
高知城の天守に隣接する本丸御殿(書院)は懐徳館(かいとくかん)として、山内家ゆかりの品や歴史資料などを展示、公開しています。
紀貫之が土佐国守に赴任した時代には、現在の高知城、高知市街中心部は海でした。
南北朝時代に鏡川から押し流された土砂によって巨大な三角州が誕生。
1588(天正16)年、長宗我部元親が居城をここに移し、市街地を整備したのが、高知の始まり。
長宗我部時代には、洪水が相次いで襲来し、市街地の整備を諦めるほどでした。
1600(慶長5)年、山内一豊が土佐国に入国して直ちに築城を開始したのが高知城。
同時に、一豊は、長宗我部残党の討伐・懐柔と治水対策が急務となりました。
高知城は築城から10年後に完成し、この地を「河中」(こうち)と命名しましたが、水害が続いため、2代・山内忠義のとき、「高智」と改称。
これが高知の名の起こりです。
高知城の周辺に家臣を集め住まわせてつくった武士の住宅街が「高知郭中」です。
郭中の東隣に接する下街は商人と手工業者の居住地域となりました。
見どころ多彩な城跡は全域が国の史跡
天守、本丸御殿(懐徳館)、納戸蔵、黒鉄門(くろがねもん)、西多聞(にしたもん)、東多聞(ひがしたもん)、詰門、廊下門、追手門、天守東南矢狭間塀、天守西北矢狭間塀、黒鉄門西北矢狭間塀、黒鉄門東南矢狭間塀、追手門西南矢狭間塀、追手門東北矢狭間塀が国の重要文化財。
高知城の石垣には多数の石樋(いしどい)が設けられています。
排水設備のひとつで、城内の水を外に流すためのもので、石垣に直接水が当たらないように突き出したつくりになっています。
追手門
詰門
黒鉄門
本丸御殿(懐徳館)
天守
山内一豊像
山内一豊妻千代像
板垣退助像
『正保城絵図』に見る 高知城
『正保城絵図』は、1644(正保元)年に徳川幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。
城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割、山川の位置、形が詳細に記載されています。
高知城(高知公園) | |
名称 | 高知城(高知公園)/こうちじょう(こうちこうえん) |
所在地 | 高知県高知市丸ノ内1-2-1 |
関連HP | 高知城公式ホームページ |
電車・バスで | とさでん交通で高知城前下車、徒歩10分 |
ドライブで | 高知自動車道高知ICから約5.5km |
駐車場 | 高知公園駐車場(65台/有料) |
問い合わせ | 高知城管理事務所 TEL:088-824-5701/FAX:088-824-9931 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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