池田屋跡

池田屋跡

元治元年6月5日(1864年7月8日)、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩の尊王攘夷派志士を近藤勇を中心とする新選組が襲撃した事件が池田屋事件(池田屋騒動)。その跡地には「池田屋騒動之址」という石碑が立っています。

旅籠・池田屋に集結していた尊王攘夷派を新選組が急襲!

元治元年6月5日、祇園祭の宵々山の日に、新選組は三条大橋のたもとにあった旅籠・池田屋に集結していた尊王攘夷派の志士達を襲撃。
朝廷では公武合体派が主流となり、宮中に及ぼす力を失った長州藩の過激派のグループは当時、御所に火を放ち、天皇を奪取して長州にお連れするという過激な計画を立てていました。

それを察知した新選組は池田屋と四国屋をマーク。
池田屋には近藤勇以下、沖田総司など7名が切り込みます。
その結果、勤王の志士7名が斬殺、23名が捕縛され、その後の維新へと続く歴史に大きな影響を与えています。

桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、奇跡的に難を逃れています。
歴史にもしは、あり得ませんが、この事件で、明治維新後に活躍しただろう多くの命が失われたことは事実です。
尊王攘夷派では、吉田稔麿(よしだとしまろ=久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀のひとり)、北添佶摩(きたぞえきつま=奥州や蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案)、宮部鼎蔵(みやべていぞう)、大高又次郎(おおたかまたじろう)、石川潤次郎((いしかわじゅんじろう=土佐脱藩望月亀弥太を池田屋に訪ねて事件に巻き込まれる)、杉山松助(すぎやままつすけ)、松田重助(まつだじゅうすけ)らの逸材が戦死しました。

この事件をきっかけに長州藩は元治元年8月20日(1864年7月19日)、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん=禁門の変)が勃発しています。

池田屋事件の起きた池田屋は今はなく、池田屋があった場所は居酒屋「池田屋 はなの舞」になっており、小さな標柱が事件の地であることを示すのみとなっています。

三条大橋の擬宝珠に刀傷が!
三条大橋の北側と南側の2ヶ所(西から数えて2つ目の擬宝珠)に刀傷がありますが、実はこの刀傷は池田屋事件の際の傷という伝承があります。
三条大橋で斬りあいがあった可能性もありますが、定かでありません。


池田屋跡
名称 池田屋跡/いけだやあと
所在地 京都府京都市中京区中島町
電車・バスで 地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩5分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約8.5km
駐車場 市営御池地下駐車場(1000台/有料)
問い合わせ 京都市河原町三条観光情報コーナー TEL:075-213-1717
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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