明智藪

明智藪

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長を本能寺で討った明智光秀ですが、備中高松城(現・岡山県岡山市)から戻った羽柴秀吉軍と6月13日、山崎の戦いで激戦を展開。これに敗れて坂本城へと落ち延びる途中、小栗栖の藪で落ち武者狩りにあって、ついに自刃。その場所が京都市伏見区に明智藪(あけちやぶ)として残されています。

坂本へ向かう途中、明智光秀終焉となった地

2020年NHK大河ドラマ(第59作)『麒麟がくる』の主人公、明智光秀の最期は、実は定かでありません。
坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りにあい竹槍で刺されたとする説、力尽きて家臣の介錯により自刃した説などがあります。

吉田兼見の記した『兼見卿記』(かねみきょうき)によれば、明智光秀の首は発見した百姓により6月14日、村井清三を通じて織田信孝(織田信長の三男)の元に届けられ、まずは本能寺で晒され、さらに京の粟田口に首と胴をつないで晒された後、6月24日に首塚が築かれています。
『太田牛一旧記』によれば、竹槍で指したのは地元の農民だったとしています。

ただし、明智藪に京都洛東ライオンズクラブが平成3年に建立した石碑の碑面には「信長の近臣・小栗栖館(おぐりすやかた)の武士集団飯田一党の襲撃された」とあります。

地元に伝わる伝承では、飯田一党の飯田左吉兵衛が本能寺の変に巻き込まれ、その恨みから光秀を討ったことになているのです。

寛文10年(1670年)の『醍醐随筆』(中山三柳著)には、百姓の鑓が馬上の明智光秀の脇腹を突き通し、二、三町(218~327m)走って絶命。
手柄を立てたのは小栗栖の作右衛門と記されています。
『明智軍記』には刺したのは郷人と記され、まさに諸説紛々。

同じ伏見から近江へと向かう小栗栖街道沿いにある本経寺の本堂の脇には、「明智日向守光秀公供養塔」と自然石に刻まれた碑が立っています。
ただしこの碑も平成10年の建立。

明智藪で殺害、あるいは自刃したことには間違いないのですが、その詳細は、いまだにわかっていません。

明智藪
名称明智藪/あけちやぶ
所在地京都府京都市伏見区小栗栖小阪町
電車・バスで地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩1分
ドライブで名神高速道路京都南ICから約8.5km
駐車場周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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