飛鳥浄御原宮

飛鳥浄御原宮

天武天皇元年(672年)の壬申の乱(じんしんのらん)で、天智天皇の後継・大友皇子を破った大海人皇子(おおあまのおうじ)が近江大津宮から飛鳥に遷して築いたのが飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)。天武天皇2年(673年)2月、天武天皇として即位し、さらに夫人で天皇を継いだ持統天皇が藤原宮に遷都するまでここが都でした。

石敷広場や大井戸跡が復元されている

大海人皇子は、古代のクーデターとして今も多くの文学や漫画の題材となる壬申の乱の後、しばらくの間は美濃(岐阜県の南部)にとどまり、その後、飛鳥の島宮に、さらに岡本宮(飛鳥岡本宮)に滞在し、岡本宮の東南側に大極殿(だいごくでん=正殿)を築きました。

天武天皇2年(673年)2月27日に即位し、天皇中心の専制政治を行ないました。
天武天皇10年(681年)2月25日には、律令制定を命ずる詔を発令していますが、これが日本で最初となる体系的な律令法で飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)と呼ばれ、教科書などにも掲載されています。

持統天皇8年(694年)に持統天皇が藤原京に都を遷すまで、飛鳥浄御原宮に都が置かれ、古代国家の基本法の制定、八色の姓(やくさのかばね)の制定(真人/まひと、朝臣/あそみ・あそん、宿禰/すくね、忌寸/いみき、道師/みちのし、臣/おみ、連/むらじ、稲置・いなぎの8つの姓の制度)、地方の国境の確定など、日本の将来を決めるような様々な土台が築かれたため天武・持統朝と呼ばれています。
栃木県大田原市に現存する那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)は、持統天皇3年(689年)に那須国の国造に任じられた那須直葦提(なすのあたいいで)の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、文武天皇4年(700年)に建立されたもので、任命は飛鳥浄御原宮で行なわれています。

『日本書紀』天武天皇元年是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ」と記され、平成16年、奈良県立橿原考古学研究所が飛鳥浄御原宮の「正殿」と判断できる東西8間(23.5m)、南北4間(12.4m)の大型の高床式建物跡を発見しています。
古代には天皇が替わるごとに、あるいは一人の天皇が数回の遷都をするケースもあり、飛鳥京跡では飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)など複数の宮殿遺構が重なっています。
発掘・復元された石敷広場や大井戸跡は、持統天皇の宮殿の礎石です。

ちなみに天武天皇の陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定され、后でもあった持統天皇も合葬した陵墓となっています(遺跡名は野口王墓古墳)。

飛鳥浄御原宮
名称飛鳥浄御原宮/あすかのきよみはらのみや
所在地奈良県高市郡明日香村飛鳥
ドライブで西名阪自動車道郡山ICから約21km
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

野口王墓(天武・持統天皇陵)

奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代(古墳時代終末期)の687年(持統天皇元年)に築かれたと推測される八角墳が、野口王墓(のぐちのおうのはか)。宮内庁は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)として、天武・持統天皇陵に治定。世界遺産を目指す

藤原宮跡

藤原宮跡

奈良県橿原市(かしはらし)、大和三山に囲まれた日本最初の本格的な皇宮の遺構が、藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)。持統天皇8年(694年)完成で、平城京遷都までの16年間、持統、文武、元明の天皇3代が律令国家体制を強力に推進した宮殿の跡です。世

飛鳥・藤原の宮都

世界遺産への国内推薦候補に選定の「飛鳥・藤原の宮都」とは!?

平成19年の世界遺産暫定リスト登録されながら、大阪の「百舌鳥・古市古墳群」が令和元年に世界遺産に登録されて、先を越されたと地元が嘆いていた「飛鳥・藤原の宮都」。17年の時を経て国内推薦候補に決まりました。今後、地元自治体は、「世界のASUK

那須国造碑(笠石神社)

那須国造碑(笠石神社)

栃木県大田原市湯津上、那珂川沿いを走る国道294号近くに鎮座する笠石神社境内にあるのが那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)。国宝に指定される飛鳥時代の貴重な石碑で、宮城県多賀城市の多賀城碑、群馬県高崎市吉井町の多胡碑とともに日本三古碑に数

近江大津宮(錦織遺跡)

近江大津宮(錦織遺跡)

天智6年(667年)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が飛鳥の地から近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)に遷都した都が近江大津宮(おうみおおつのみや)。長らく、その場所は不明でしたが、昭和49年の発掘調査により大津市錦織の住宅地(錦織遺跡)

よく読まれている記事

こちらもどうぞ