大官大寺跡

大官大寺跡

奈良県高市郡明日香村と橿原市の境、藤原宮の東南の条坊内に計画的に配置された古代寺院の跡が、大官大寺跡(だいかんだいじあと)。飛鳥・藤原地域で建立された古代寺院の中では最大の寺院でしたが、現在は石碑がその場所を示すのみとなっています。世界遺産を目指す「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産のひとつ。

飛鳥京での国家の筆頭寺院の遺構



大官大寺は、舒明天皇(じょめいてんのう/在位629年〜641年)が発願した百済大寺(くだらのおおでら)を天武天皇(てんむてんのう/在位673年〜686年)の治世である天武天皇2年(673年)、天香久山の南に移築、高市大寺と改称した官寺。
天武天皇6年(677年)、天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称し、川原寺、飛鳥寺の三大官寺の首座となったため、史跡名称も大官大寺跡となっています。

天武天皇は国家仏教を推進(僧侶は国家公務員でした)、自らを天皇、倭国を日本国と称して、律令体制の確立を図りました。

大官大寺跡は、天香久山南麓の水田のなかに、九重塔と金堂の基壇跡がわずかな痕跡として残され、この場所がかろうじて古代寺院の遺跡と判別できますが、実は九重塔は東アジア各国(唐・百済・新羅・高句麗)に共通する古代国家のシンボルでした。

発掘調査により、講堂や回廊、中門などの遺構と伽藍の規模が明らかになり、その寺域は東西205m、南北354m、藤原京・左京九条四坊の南半と藤原京・左京十条四坊の全域に及ぶ大きな寺だったことがわかっています。

金堂と講堂は同一規模、構造で、正面の幅は45mと藤原宮大極殿(ふじわらきゅうだいごくでん)に匹敵する大きさでした。
九重塔も基壇が一辺35m、塔自体も一辺15m、高さは100m近いものだったと推測され、現在、日本で最も高い京都の東寺にある五重塔よりもはるかに高かく、藤原京のシンボルタワーとして建設されたのです。

金堂→講堂→塔→中門・回廊の順で造営されていますが、完成を待たない和銅4年(711年)に火災で主要な伽藍すべてが焼失したことが平安時代の私撰歴史書『扶桑略記』(ふそうりゃくき)に記されています。
実は、火災時に完成していたのは金堂と講堂のみ。
塔は完成途中で焼け落ちていて、その英姿を見ることはありませんでした。

寺自体は、平城京遷都で移転し、大安寺として法灯を後世に繋いでいます。
しかも聖武天皇が東大寺を建立するまで、国家の筆頭寺院の地位はこの大官大寺にありました。

天皇を中心とした律令国家の成立を目指す古代の日本で、天皇家の官寺として大規模な寺院を藤原京の都市計画に位置付けて造営されたということで、実に貴重な遺構となっています。

大官大寺跡
名称 大官大寺跡/だいかんだいじあと
所在地 奈良県高市郡明日香村
関連HP 飛鳥観光協会公式ホームページ
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