西福寺・維新の暁鐘

西福寺・維新の暁鐘

信濃川右岸、新潟県長岡市渡里町にある浄土真宗本願寺派の寺が西福寺。明治元年・慶応4年(1868年)に起こった北越戊辰戦争時、5月19日の早朝に西軍(新政府軍=薩長連合軍)が信濃川を強行渡河しましたが、その際、一藩士によって打ち鳴らされ、敵の侵攻を長岡城下に知らせたのが、この西福寺・維新の暁鐘です。

西軍の奇襲を告げた、長岡城下最古の鐘

明和3年(1766年)、長岡藩の鋳物師・田中多左衛門尉重定が鋳造したと伝わる梵鐘で、鎌倉時代の作風を伝える龍頭が特徴。
長岡城下に残る最古の鐘といわれ、信濃川左岸から進軍という新政府軍の奇襲作戦で長岡城は落城しましたが、結果として維新の幕開けにつながったことから、「維新の暁鐘」と呼ばれています。

また寺では、南北朝時代から室町時代前期の作とされる金箔が施された「方便法身尊像」(ほうべんほっしんそんぞう)を所蔵。
方便法身とは、阿弥陀如来のことで、本願寺が門徒に下賜したものでは、最古の部類の尊像といわれています。

ちなみに西福寺周辺は、長岡城の大手口から西へ徒歩10分に位置し、教覚寺、妙宗寺、稱讃寺、西入寺、長永寺、願浄寺、本善寺、善行寺など、今も寺町が形成され、長岡城の防御ラインにもなっていました。
寺町の西側には、「外堀」として機能した柿川(内川)が流れ、西の信濃川を渡って敵軍が襲来した際には、柿川の内側に配置した寺院群を防御ラインにして長岡城を防御しようとしたのです。

西福寺・維新の暁鐘
名称西福寺・維新の暁鐘/さいふくじ・いしんのぎょうしょう
所在地新潟県長岡市渡里町3-21
関連HP長岡市公式ホームページ
電車・バスでJR長岡駅から徒歩10分
ドライブで関越自動車道長岡ICから約6km
駐車場5台/無料
問い合わせ西福寺 TEL:0258-33-3197
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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