富山県黒部市生地にある新治神社(にいはるじんじゃ)。天智天皇の御代の創建と伝えられる古社ですが、もともとの鎮座地である新治村(にいはりむら)は、元暦2年7月9日(1185年8月13日)に発生した文治地震(ぶんじじしん)の津波によって海底に沈んだという「伝説の村」なのです。
元暦2年(1185年)に起きた地震で新治村は海に沈んだ!
黒部市生地地区はアルプスからの伏流水が湧き出る湧水の里であるとともに、昆布ロードに関連した土地。
というのも北海道開拓時代に羅臼昆布で知られる知床・羅臼に入植した人の7割はこの生地出身者だったのです。
その地に鎮座する新治神社も清水湧き出る池のある神社。
しかし、神代の時代に創建された古社には「沈んだ村」の伝承が・・・。
その新治神社、平安時代編纂の『延喜式神名帳』には記載がありませんが、『三代実録』に元慶七年十二月二十八日、「越中国正六位上新治神」に神階従五位下を授けられたとあり、少なくとも元慶7年(883年)には鎮座していたことがわかっています。
この新治神社、元暦2年7月9日(1185年8月13日)に発生した文治地震(ぶんじじしん/大地震が発生したため文治に改元)の津波によって海底に沈んだという伝説の村・新治村から遷座したのだと伝えられています。
源平合戦の壇ノ浦の戦いの4ヶ月後に発生した文治地震。
そのため、当時は、「平家の怨霊の仕業」(『平家物語』)などと噂されました。
京阪神に被害が多く、琵琶湖西岸断層帯説、南海トラフ巨大地震説などがありますが、震源は定かでありません。
新治神社、前名寺など370余戸の家屋が海中に没して「死傷者無数」と記録されています。
新治神社では津波で新治村が沈んでしまった様子と、さらに津波から約80年後に海岸線が復旧した様子が描かれた2枚の絵図が見つかっています。
生地は地震からの復興で新たに「生まれた地」!
文治3年(1187年)に源義経が平泉に逃れる途中、この地を通っていますが、三日市に泊まり、村椿の「上野川」に立ち寄ったという伝承がありますが、新治神社の記録などにはありません。
つまり、新治村が復興していなかったと推測できるのです。
現社地の西側1100mまで陸地で、海岸付近に建っていたのが新治神社でしたが、津波で海に沈んだため、鎌倉時代の弘長2年(1262)になって、旧社地の東1kmほどの場所(現社地)にようやく八幡宮(新治神社)を復興。
一帯は、新たに生まれた町ということで、「生まれ地」と呼ばれ、これが生地という地名のルーツにもまったのです。
12世紀頃、新治村の南側には、「越之湖」という湖が広がっていました。
大きな帆船も出入りしたという天然の湊(みなと)だった越之湖。
幅800m、周囲10km、深さ6mと伝えられています。
「越之湖」は、嘉暦2年(1327年)5月、黒部川、片貝川の大洪水などで大部分が泥土に埋まりました。
この時の大洪水で片貝川の流路が大きく東にそれて布施川の流路が奪われてしまうほどだったと推測されています。
新治神社境内の月見嶋の池(湧水)や、黒部市美術館横のヨシ原や湿地帯(下図参照)は、中世にこの地にあった「越之湖」の名残とされています。
新治神社北側の黒部港には、珍しい海底トンネル(人道)、旋回橋もあるので、黒部市を訪れるなら、あわせて見学を。
新治神社(黒部市)は、平安時代に海底に沈んだ新治村から遷座した!? | |
所在地 | 富山県黒部市生地山新660 |
関連HP | 黒部市公式ホームページ |
電車・バスで | あいの風とやま鉄道生地駅から徒歩25分 |
ドライブで | 北陸自動車道黒部ICから約8km |
駐車場 | 5台/無料 |
問い合わせ | 新治神社 TEL:0765−56−8609/FAX:0765−56−8648 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |