愛知県という県名は、「愛を知る」という少しロマンチックな感じですが、県名の由来は、名古屋市南部の地名から。『万葉集』巻三・二七一の高市黒人(たけちのくろひと)の歌に登場する年魚市潟(あゆちがた)から採ったもの。「年魚市潟」の「あゆち」が転訛して「あいち」になったもの。
年魚市潟から愛智郡が生まれ、愛知郡になり、愛知県へ
現在の愛知県は、律令体制が始まる以前、古代には律令体制以前は、尾張(愛知県西部)、三河(西三河)、穂(東三河の豊川地方)に分かれていましたが、律令制の始まりとともに、尾張国、三河国となり、明治維新後の県政施行で愛知県となりました。
高市黒人は、飛鳥時代の官人で歌人。
『万葉集』に短歌18首が採録されていますが、律令体制以前の三河、尾張にも足を運んでいます。
名古屋市南区笠寺・呼続から緑区鳴海にかけて、現在、天白川が流れる一帯は縄文海進時に海が入り込み、その後は海と低湿地でした。
笠寺台地の高台に建つ桜田八幡社には、
「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る」の万葉歌碑が立っています。
女帝・持統天皇(じとうてんのう)が三河国・宮路山に行幸した際に高市黒人が同行し、この地の景観に感嘆して詠んだものと推測され、
「桜田の方へ鶴が鳴いて飛んでいく。年魚市潟は潮が引いたようだ。鶴が鳴いて飛んでいくから」というのが現代語訳です。
もともと海だった低地には名古屋市立桜田中学校もあり、一帯が桜田と呼ばれる場所だったことがわかります。
『尾張名所図会』には「櫻村の田圃、すなわち万葉集によめる櫻田にて」と記されています。
桜田八幡社には桜田貝塚もあり、弥生時代後期から古墳時代にかけての漁労生活を物語っています。
ハマグリ、アサリ、カキなどが出土しているので、年魚市潟が海だったことが裏付けられます。
この年魚市潟は景勝地としても名高く、この桜田八幡社のある笠寺台地からの眺めが、桜田勝景。
その美しい景観を背景に、広域の地名も年魚市、鮎市、吾湯市などと記され、「あゆち」と読ませていましたが、律令制の始まった奈良時代、尾張国の郡名として「愛智郡」(あいちぐん)が誕生。
県政施行の際、愛知家県庁が愛知郡(愛智郡)の名古屋城内に置かれたところから県名に採用されたことに。
つまりはこの年魚市潟に由来する愛智郡が、愛知郡となり、ついに愛知県になったということに。
【県名の由来】愛知の名は年魚市潟(あゆちがた)に由来 | |
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