古代の政治の中心は、飛鳥・奈良地域にあったのですが、645年、古代史上で有名な「大化改新」とともに即位した孝徳天皇は、人心を一新して政治を行なうために、古代の国際貿易港である難波津(なにわづ)に近い難波宮に遷都しています。その後、聖武天皇は大陸式の都を難波に築き、現在の大阪に本格的な都が築かれました。
古代、現在の大阪城公園の南に都があった!
古代に飛鳥や奈良に置かれた都は、内陸にあるため海外との交易などには、現在の大阪港にあたる難波津(なにわづ)が国際貿易港として機能していました。
難波津は、5世紀にはすでに国際貿易港としての体裁を整えていたことがわかっています。
大化改新後、孝徳天皇は、日本古来の建築スタイルである掘立柱形式の宮殿を難波津に近い場所(現在の大阪城公園の南側)に造営しています。
これが難波長柄豊碕宮(なにわとよさきのみや=前期難波宮)です。
前期難波宮は686(朱鳥元)年の火災で焼け落ち、都はいったん平城京へと遷されていますが、724(神亀元)年に即位した聖武天皇は、大陸式の建築様式の宮殿を難波宮に造営。
744(天平16)年に難波宮に遷都しています。
745(天平17)年には都が難波京から紫香楽宮へと遷都されているので、実際に、現在の大阪に本格的な大陸風の王宮が築かれていたのは1年ほどのこと。
784(延暦3)年、桓武天皇により長岡京に遷都された際に、大極殿の建物なども長岡京に移築され、平安京遷都で陪都としての機能も失っています。
長らくその場所が謎だった難波宮ですが、昭和36年、聖武天皇再建の宮殿の中心的建物・ 大極殿(だいごくでん)の跡が発見され、その場所が確定したのです。
国の史跡に指定され、史跡公園(難波宮跡公園)として整備され、後期難波宮の大極殿基壇と朝堂院回廊の基壇が復元されています。
大極殿の基壇は、南北21m、東西推定42mという巨大なもの。
645年=白村江の戦いで倭国・百済遺民の連合軍が唐・新羅連合軍に敗れる
667年=近江大津京に遷都
694年=藤原京に遷都
710年=平城京に遷都
784年=長岡京に遷都
794年=平安京に遷都
飛鳥時代から奈良時代、平安時代へは都は目まぐるしく動いていますが、652年〜686年(前期難波宮)、726年〜793年(後期難波宮)の間、難波には宮殿が造られ、古代の重要な政治的な拠点であったことがわかっています。
孝徳天皇が築いた難波宮はどこにあったのか遺構は見つかっていませんが、朝鮮半島(白村江の戦い)での敗戦により、唐・新羅連合軍の倭国侵略という国際情勢もあって、海岸部から遠い近江大津京へと都が移されたのだと推測できます。
大阪城から四天王寺にかけて南北にのびる標高20m前後の台地が上町台地。
難波宮、四天王寺などはこの台地の上に築かれているのです。
大阪歴史博物館地下には難波長柄豊碕宮の遺跡がそのままに保存。
また玄関前には復元倉庫が置かれているのであわせて見学を。
難波宮跡公園 | |
名称 | 難波宮跡公園/なにわのみやあとこうえん |
所在地 | 大阪府大阪市中央区法円坂1 |
関連HP | 大阪歴史博物館公式ホームページ |
電車・バスで | 地下鉄中央線谷町四丁目から徒歩5分 |
ドライブで | 阪神高速道路東大阪線法円坂ランプからすぐ |
駐車場 | 大阪歴史博物館地下駐車場(144台/有料) |
問い合わせ | 大阪歴史博物館 TEL:06-6946-5728/FAX:06-6946-2662 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag