楠公誕生地

楠公誕生地

大阪府千早赤阪村にある楠木正成生誕の地という伝承が残る地。国史赤阪城跡(下赤坂城跡)から北に500m、国史楠木城跡(上赤坂城跡)から北に2kmという位置関係です。楠公誕生地一帯は、「道の駅ちはやあかさか」の敷地で、くすのきホール、千早赤阪村郷土資料館、トイレなどに囲まれて楠公誕生地碑が立っています。

一帯は楠木正成ゆかりの地

楠木正成は、永仁2年(1294年)生誕。
8~15才まで観心寺境内にある楠木家菩提寺の「中院」で学問を習ったと伝承されます。
武家から朝廷へと権力の移行を図った建武の新政の功労者ですが、天皇中心の政治に反旗を翻した足利尊氏に湊川の戦いで破れ、自害しています。

文禄年間(1592年~1596年)、豊臣秀吉の命で増田長盛がこの地を検地し、土壇を築き、小さな社を祀ったのが始まり。
さらに、明治8年、天皇への忠臣ということで、大久保利通の働きかけもあり、石碑が建てられています。

平成2年~4年にかけて「くすのきホール」建設に伴って発掘調査が行なわれ、2重の堀に囲まれた建物跡が発掘されており、桐山遺跡とともに楠木氏館跡の有力な候補地となっています。
楠公誕生地碑から、檜製の階段を下りると楠公産湯の井戸があります。

江戸時代には水戸学の尊皇の史家により、楠木正成の見直しが行なわれ、明治初年には南朝が正統であるとされるとして「大楠公」(だいなんこう)となり、明治13年に正一位が追贈されています。
東京の皇居外苑にも設置される楠木正成の銅像も、明治23年に住友家が別子銅山開坑200年記念事業として献納したもの。
こうして、明治時代には忠臣として崇められ、忠君愛国のシンボルともなったのです。

楠公誕生地
名称楠公誕生地/くすのきこうたんじょうち
所在地大阪府南河内郡千早赤阪村水分266
関連HP千早赤阪村公式ホームページ
電車・バスで近鉄長野線富田林駅から金剛バスで千早赤阪村役場前下車、徒歩5分
ドライブで阪和自動車道美原ICから約14km
駐車場道の駅ちはやあかさか駐車場(75台/無料)を利用
問い合わせ千早赤阪村観光協会 TEL:0721-72-1447/FAX:0721-72-1880
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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