埼玉県北足立郡伊奈町小室にある利根川東遷事業などに尽力した伊奈忠次(いなただつぐ)が築いた陣屋の跡が伊奈氏屋敷跡(埼玉県の史跡)。三河国幡豆郡小島城(現・愛知県西尾市小島町、アイシンAW城山工場)に生まれ、徳川家康の関東転封に伴って、関東代官頭としてこの地に屋敷を構えています。
関東平野の開発は、この陣屋を起点に始まった!
伊奈忠次は、徳川家康の関東転封に伴い、武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)、鴻巣郷など1万3000石を拝領し、利根川東遷事業に着手、さらに農業用水の備前渠用水(びぜんきょようすい)などを開削しています。
天正19(1591)年、無量寺閼伽井坊の屋敷を接収し、東西350m、南北750mの楕円形の陣屋を構築。
陣屋は小高い土塁で囲み、沼で土塁が築けない部分は堀で防御されていました(発掘調査後、堀は埋め戻されています)。
障子のような構造の障子堀だったことが判明し、屋敷というより、陣屋(城郭)といった方がイメージにあっています。
明治維新まで陣屋としての機能を有していますが、維新後は民有地になっているため、整備されていません。
関東エリアにある備前渠、備前堤など備前の付く構築物は、伊奈忠次の官位である備前守に、伊奈町は伊奈姓が町名の由来になっています。
次男の伊奈忠治は父の遺志を継ぎ、利根川東遷事業(完成まで60年を費やしています)、見沼溜井、八丁堤工事、江戸川開削などを行なっていますが、拠点としたのは武蔵国赤山(現・埼玉県川口市赤山)の赤山陣屋です。
江戸のグランドデザインを描いた伊奈忠次
関ヶ原の合戦が行なわれた、慶長5年(1600年)頃、元荒川と綾瀬川を分離をするなど、関東の治水利水に腐心した伊奈忠次・忠治親子。
慶長9年(1604年)には、早くも利根川から取水する農業用水、備前渠用水(びぜんきょようすい)の開削を始めています。
家康の関東転封に伴い、関東平野の生産力向上、江戸城下の人口増大を見越した都市計画、大人口を支える物流の整備、堤防を越水し流路を変える利根川の治水と利水、そして江戸の飲料水確保と、難題が山積みで、その解決を一手に引き受けていたのが伊奈忠次なのです。
このため、伊奈忠次が屋敷を定め、最初に実施したのが検地で、正確な石高を測り村々の生産力、人口を掌握しています。
村の自治権を確立し、一揆や暴動を防ぎながら、徳川家臣団の知行割(領地配分)を実施しています。
新田の開発などとともに、桑、楮、炭焼き、製塩などの殖産興業も推進し、江戸の開発の基礎を固めただけではなく、幕藩体制への円滑な移行を果たすことができた立役者にもなっているのです。
そんな苦労から伊奈忠次、58歳の慶長12年(1607年)には過労により昏倒し、数日ののちようやく蘇生したということもあったのだとか。
60歳の時には、尾張国、木曽川左岸に御囲堤を築造し、備前掘の開削は、最晩年の61歳のことです(伊奈忠次は61歳で没)。
伊奈氏屋敷跡 | |
名称 | 伊奈氏屋敷跡/いなしやしきあと |
所在地 | 埼玉県北足立郡伊奈町小室185 |
関連HP | 伊奈町公式ホームページ |
電車・バスで | 埼玉新都市交通丸山駅から徒歩10分 |
問い合わせ | 伊奈町生涯学習課 TEL:048-721-2111/FAX:048-721-4851 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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