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大河ドラマの主人公、有名武将の終焉の地&墓所

有名武将の終焉の地&墓所

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑を筆頭に、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、明智光秀、前田利家、山内一豊、徳川秀忠、源頼朝というNHK大河ドラマの主人公となった11人の有名武将、そしてその候補となる2人(石田三成、加藤清正)の合計13人の終焉の地、墓所を紹介。

織田信長(1534年〜1582年)

没年月日:天正10年6月2日(1582年6月21日)
死没地:本能寺(本能寺の変で明智光秀に討たれる)
所在地:京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町(本能寺跡)
葬儀:大徳寺(秀吉は総見院を建立)
墓所:本能寺・織田信長公廟
戒名:総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀(本能寺)
大河ドラマ:平成4年・9作目『信長 KING OF ZIPANGU』(緒形直人)

本能寺跡

明智光秀が主君・織田信長を討った本能寺の変。信長が上洛の際に宿所としていた本能寺は、本能寺の変当時は現在の寺町御池ではなく、堀川四条近く、油小路通蛸薬師にありました。「本能寺跡」石碑、「此附近本能寺址」石柱も立っていますが、実は本能寺があっ

大徳寺

京都屈指の規模を誇る禅寺、臨済宗大徳寺派の大本山が大徳寺。正和4年(1315年)に大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃しますが、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が堺の豪商らの協力で復興しています。

本能寺・織田信長公廟

天下統一を目前とした織田信長が、NHK大河ドラマ第59作『麒麟がくる』の主人公となった明智光秀の謀反により夢半ばにして自刃した寺が本能寺。往時の本能寺は「本能寺の変」で焼失し、現在の本能寺は豊臣秀吉によって移転、再建されたもの。本能寺境内に

豊臣秀吉(1537年〜1598年)

没年月日:慶長3年8月18日(1598年9月18日)
死没地:伏見城
所在地:京都府京都市伏見区桃山町大蔵
葬儀:朝鮮出兵(慶長の役)の最中ということもあり、行なわれていません
墓所:豊国廟(京都市東山区阿弥陀ヶ峰)
神号:豊国大明神
戒名:国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
大河ドラマ:昭和40年・第3作『太閤記』(緒形拳)、昭和56年・第19作『おんな太閤記』(西田敏行)/ただし主人公は、ねね(佐久間良子)、平成8年・第35作『秀吉』(竹中直人)

伏見城(伏見桃山城運動公園)

京都市伏見区桃山町、大坂と用を結ぶ水運の要衝の地・伏見に豊臣秀吉が隠居所として築いた豪壮な城が伏見城。現在は2代目の伏見城(木幡山伏見城)城跡一帯が伏見桃山城運動公園として整備されています。模擬天守も建っていますが、本丸跡などの主郭部分は明

豊国廟

京都府京都市東山区、阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山頂にある豊臣秀吉の霊廟が豊国廟。豊臣秀吉を祀る豊国廟と豊国社は、徳川家康によって破壊されましたが、明治13年に修築が始まり、明治30年に阿弥陀ヶ峰の山頂に橿原神宮、平安神宮を手掛けた伊東忠太

徳川家康(1543年〜1616年)

没年月日:元和2年4月17日(1616年6月1日)
死没地:駿府城
所在地:静岡市葵区駿府城公園1-1
葬儀:増上寺
墓所:久能山東照宮・神廟、日光東照宮・奥社
神号:東照大権現
戒名:安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(増上寺)、東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士(日光山に祀られた後)
大河ドラマ:昭和58年・第21作『徳川家康』(滝田栄)、平成12年・第39作『葵 徳川三代』(津川雅彦)、令和5年・第62回『どうする家康』(松本潤)

駿府城(駿府城公園)

静岡市の中心に位置する二重の堀と美しい石垣に囲まれた、静岡市民憩いの場。かつて徳川家康が築城、余生を送った駿府城の跡で、駿府藩の藩庁。府中城や静岡城とも呼ばれています。日清戦争後の明治29年から終戦まで、静岡歩兵第三十四聯隊の兵営があった場

久能山東照宮・神廟(家康墓所)

元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で没した徳川家康は、その遺言によってその夜のうちに久能山に遺体が移され、葬られています。一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社にも祀られていますが、久能山東照宮には実際に埋葬された東照大権

日光東照宮・奥社

日光東照宮は、徳川家康の廟所として築かれた神仏習合の霊山。まずは久能山に祀り、その後、日光山に改葬という家康の遺言を受け、天台宗の天海大僧正の主張(山王一実神道で祀る)で東照大権現として祀られましたが、その墓所が日光東照宮・奥社。坂下門から

武田信玄(1521年〜1573年)

没年月日:元亀4年4月12日(1573年5月13日)
死没地:長篠城から甲斐に引き上げる途中、三河街道途中、福田寺(信玄塚)、根羽の信玄塚、駒場の長岳寺(小山田信茂宛御宿監物書状写)など候補地多数
所在地:長野県下伊那郡阿智村
葬儀:恵林寺で、天正3年(1575年)4月12日の信玄三周忌に葬儀を実施
墓所:信玄公墓所(山梨県甲府市岩窪町)ほか
戒名:法性院機山徳栄軒信玄
大河ドラマ:昭和63年・第26作『武田信玄』(中井貴一)、平成19年・第46回『風林火山』(市川亀治郎)/ただし主人公は山本勘助(内野聖陽)

福田寺(信玄塚)

愛知県北設楽郡設楽町にある臨済宗妙心寺派の寺、福田寺(ふくでんじ)。境内には武田信玄を葬ったと伝える信玄塚、馬場美濃守の供養塔があり、信玄の墓所伝承地のひとつ。武田信玄は、天正元年(1573年)、野田城(現・新城市豊島)を攻略の際に病に倒れ

信玄公墓所

元亀4年(1573年)、信州駒場で病死した武田信玄を密かに仮埋葬した地と伝えられているのが甲府市岩窪町にある信玄公墓所。武田信玄は上洛途中で病に倒れ、その遺言によって、喪を3年間も隠し続け、さらに万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にもしていま

上杉謙信(1530年〜1578年)

没年月日:天正6年3月13日(1578年4月19日)
死没地:春日山城
所在地:新潟県上越市中屋敷
葬儀:大乗寺(廃寺)
墓所:春日山林泉寺、上杉家廟所
戒名:不識院殿真光謙信
大河ドラマ:昭和44年・第7作『天と地と』(石坂浩二)、昭和48年・第11作『国盗り物語』(高橋英樹)

春日山城

戦国の名将・上杉謙信が居城を構えた春日山。もとは越後守護・上杉氏の要害(ようがい)として南北朝時代の14世紀末に築かれ、守護代である長尾高景(ながおたかかげ)が住んだ鉢が峰城が前身。長尾為景、晴景、長尾景虎(上杉謙信)、上杉景勝と4代にわた

春日山林泉寺

新潟県上越市にある上杉謙信の祖父・長尾能景(ながおよしかげ)が、父・長尾重景(ながおしげかげ)の菩提を弔うため明応6年(1479年)に建立した寺が、春日山林泉寺。虎千代(上杉謙信の幼名)は7歳から14歳まで、林泉寺6代住職・天室光育(てんし

上杉家廟所

山形県米沢市にある米沢藩主上杉家の墓所で、初代の上杉謙信から12代の斉定までが埋葬されているのが上杉家廟所(米澤藩主上杉家廟所)。もともと謙信の遺骸は米沢城本丸の御堂に安置され、現在の墓所のある地はいざという時の避難場所として確保されていた

伊達政宗(1567〜1636)

没年月日:寛永13年5月24日(1636年6月27日)
死没地:仙台藩外桜田上屋敷跡(現・日比谷公園)
所在地:東京都千代田区日比谷公園1
葬儀:仙台北山(野原での葬儀、後に瑞鳳殿を建立)
墓所:瑞鳳殿
戒名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士
大河ドラマ:昭和62年・第25作『独眼竜政宗』(渡辺謙)=平均視聴率39.7%は、大河ドラマの歴代トップ

日比谷公園

東京都千代田区にある明治36年6月1日に開園した、日本で初めての西洋式庭園が日比谷公園。もとは佐賀鍋島藩江戸上屋敷などの武家屋敷があり、明治4年には陸軍操練所(後の日比谷練兵場)があった地。16.2haという広大な敷地には、池や大噴水が配さ

瑞鳳殿

仙台城跡に位置する瑞鳳殿(ずいほうでん)は、寛永13年(1636年)に70歳で亡くなった初代仙台藩主・伊達政宗(だてまさむね)の霊廟で寛永14年(1637年)に、2代藩主・伊達忠宗により創建。創建時の建物は昭和20年に惜しくも戦災で焼失し、

明智光秀(1516〜1582)

没年月日:天正10年6月13日(1582年7月2日)
死没地:明智藪/坂本城に落ち延びる途中、落ち武者狩りで暗殺
所在地:京都府京都市伏見区小栗栖小阪町
葬儀:なし/謀反人ということで本能寺、粟田口などで晒し首に
墓所:京都市東山区、白川の清流沿いに明智光秀首塚、谷性寺(現・京都府亀岡市宮前町)に首塚(伝承)
戒名:鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門(本徳寺/現・岸和田市)
大河ドラマ:令和2年・第59作『麒麟がくる』(長谷川博己)

明智藪

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長を本能寺で討った明智光秀ですが、備中高松城(現・岡山県岡山市)から戻った羽柴秀吉軍と6月13日、山崎の戦いで激戦を展開。これに敗れて坂本城へと落ち延びる途中、小栗栖の藪で落ち武者狩りにあって、

明智光秀首塚

京都府京都市東山区、白川の清流沿い、和菓子の「餅寅」から少し入った路地裏にあるのが明智光秀首塚。明智光秀は、天正10年6月13日(1582年7月2日)、坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の竹藪(現・明智藪)で落ち武者狩りにあい、その首が

加藤清正(1562〜1611)

没年月日:永禄5年6月24日(1562年7月25日)
死没地:熊本城
所在地:熊本県熊本市中央区本丸1-1
葬儀:赤尾口の丘の上で荼毘にし、遺骸は中尾山に運ばれ埋葬(浄池廟を建立)
墓所:本妙寺・浄池廟、天澤寺(山形県鶴岡市)
戒名:浄池院殿永運日乗大居士/加藤神社が創建され、神格化(軍神化)されたのは明治初年の神仏分離以降で、加藤清正自体は熱心な法華宗の信者
大河ドラマ:なし

熊本城

名古屋城、大坂城(大阪城)と並び「日本三名城」の一つ熊本城は、天正16年(1588年)に肥後半国の領主・加藤清正によって6年の歳月をかけて築かれた豪壮雄大な城。現在残る熊本城の城郭は、加藤清正が築いたものを細川時代に手直ししたもの。日本10

本妙寺

熊本県熊本市西区にある加藤家代々の菩提寺で、加藤清正が帰依した日蓮宗の名刹が本妙寺。天正13年(1585年)、加藤清正が父・加藤清忠の菩提を弔うため、発星院日真が大坂(おおざか・現在の大阪)に建立したものを、肥後転封後、熊本城内法華坂に移し

天澤寺

山形県鶴岡市、丸岡城跡に隣接する曹洞宗の寺、天澤寺(てんたくじ)。慶長16年(1611年)、熊本城で加藤清正が没した後、11歳の若さで跡を継いだ加藤忠広は、家臣団を完全に掌握できず、出羽庄内藩主・酒井忠勝に預けられることに。加藤忠広が密かに

前田利家(1539〜1599)

没年月日:慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)
死没地:大坂の前田利家邸(現・玉造稲荷神社)
所在地:大阪府大阪市中央区玉造2-3-8
葬儀:宝円寺(石川県金沢市宝町)
墓所:野田山・加賀藩主前田家墓所(金沢市野田町)、宝円寺
戒名:高徳院殿桃雲浄見大居士
大河ドラマ:平成14年・第41作『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(唐沢寿明)

玉造稲荷神社

大阪府大阪市中央区玉造にある古社が玉造稲荷神社。社伝によれば垂仁天皇が創建といい、蘇我氏と物部氏の戦いの際に、聖徳太子が観音堂を建立した地とも伝えられています。豊臣政権下では大坂城三の丸に位置し、一帯には前田利家など重臣の屋敷が並び、千利休

宝円寺

金沢市の石引、小立野寺院群(こだつのじいんぐん)にある曹洞宗の名刹、宝円寺(ほうえんじ)。「利家とまつの寺」といわれるように加賀藩祖・前田利家が創建し、前田家代々の菩提寺となった寺です。護国山という山号にも加賀国を守るという藩主の思いが込め

野田山・加賀藩主前田家墓所

金沢城の南西3.5kmの野田山(標高175m)の山腹に広がるのが加賀藩主前田家墓所。天正15年(1587年)、藩祖となる前田利家(まえだとしいえ)が実兄・前田利久(まえだとしひさ)を山頂近くに葬ったのが野田山墓地の始まり。利家も野田山に葬る

山内一豊(1545〜1605)

没年月日:慶長10年9月20日(1605年11月1日)
死没地:高知城下屋敷(現・高知県庁一帯)
所在地:高知県高知市丸ノ内1-2-1
墓所:日輪山(筆山)、後の土佐藩主山内家墓所(高知県高知市天神町)
戒名:大通院殿心峯宗伝大居士
大河ドラマ:平成18年・第45作『功名が辻』(上川隆也)

高知城(高知公園)

高知城は、1601(慶長6)年から10年の歳月を費やし、土佐藩の初代藩主・山内一豊(やまうちかつとよ)が築城した平山城。現存する天守は、1727(享保12)年に城下の大火の延焼で焼失後、1753(宝暦3)年に再建されたもの。天守、詰門、多聞

土佐藩主山内家墓所

高知県高知市筆山町、筆山(ひつざん)の北麓にある土佐藩の大名墓地が土佐藩主山内家墓所。土佐藩20万石を領有した大名山内家歴代の墓所として営まれたもので、慶長10年(1605年)、高知城下屋敷で没した初代藩主・山内一豊(やまうちかつとよ)が筆

徳川秀忠(1579〜1632年)

没年月日:寛永9年1月24日(1632年3月14日)
死没地:江戸城西の丸(現・皇居)
所在地:東京都千代田区千代田
葬儀:増上寺(東京都港区芝公園4-7-35)
墓所:増上寺
戒名:台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士
大河ドラマ:平成12年・第39作『葵 徳川三代』(西田敏行)

増上寺

徳川将軍家の菩提寺として有名。寺としての歴史は古く、その創建は1393(明徳4)年まで遡ります。徳川家康の菩提寺として芝に移されてからは、東国随一の浄土宗寺院として繁栄を続けてきましたた。東京大空襲の戦火でほとんどの建物を焼失してしまいまし

石田三成(1560〜1600年)

没年月日:慶長5年10月1日(1600年11月6日)
死没地:六条河原で斬首
所在地:京都府京都市、鴨川・五条大橋〜正面橋の間
葬儀:なし
墓所:大徳寺・三玄院に埋葬(江戸時代は、徳川家が石田三成の墓をつくることも許可せず)
戒名:江東院正軸因公大禅定門
大河ドラマ:目下、地元で石田三成を主人公とする大河ドラマ制作気運を盛り上げ中

大徳寺・三玄院

京都府京都市北区、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭(たっちゅう)が三玄院(さんげんいん)。大徳寺本坊の西にあり、天正17年(1589年)、石田三成、浅野幸長(あさのよしなが)、森忠政(もりただまさ/森蘭丸の弟)による創建。石田三成、森忠

源頼朝(1147〜1199)

没年月日:建久10年1月13日(1199年2月16日)
死没地:大蔵御所
所在地:神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯(清泉小学校横に石碑)
葬儀:『吾妻鏡』(あづまかがみ)に記録なし
墓所:大倉法華堂跡・白旗神社(源頼朝墓所/神奈川県鎌倉市西御門)
戒名:武皇嘯厚大禅門
大河ドラマ:昭和54年・第17作『草燃える』(石坂浩二)

白旗神社(源頼朝墓所)

建久9年(1199年)12月27日、源頼朝は、御家人・稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻の供養のために相模川に架けた橋の落成供養の帰途、落馬したことが原因で没しています。頼朝は鎌倉の持仏堂(後の法華堂)に葬られましたが、明治の廃仏毀釈で法華堂

鎌倉幕府・大蔵御所跡

神奈川県鎌倉市、鎌倉幕府を開いた源頼朝の邸宅が大蔵御所。鎌倉幕府・大蔵御所跡とされるのは、かつての相模国鎌倉大蔵郷で、現在の鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯。治承4年(1180年)〜承久元年(1219年)の39年間、鎌倉幕府のトップ、

大河ドラマの主人公、有名武将の終焉の地&墓所
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

大河ドラマの主人公、有名武将の生誕地&産湯の井戸

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑を筆頭に、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、明智光秀、前田利家、山内一豊、徳川秀忠、源頼朝というNHK大河ドラマの主人公となった11人の有名武将、そしてその候補となる2人(石田三成、加藤清正)の合計13人の生

五大老とは!?

豊臣政権を支えた徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家という5人の大大名(だいだいみょう=10万石以上の大名)が五大老。実務は浅野長政、石田三成などの五奉行が行なったので、五大老は秀頼が成人して政務を司るまで、互いに牽制しながら

 

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