佐々木さんは全国13位の大姓で、全国に70万人ほど、シェア率0.55%を誇っています。『鎌倉殿の13人』に登場した佐々木一族は、近江の出で、「元近江の豪族」と解説されていましたが、実は古代豪族がルーツ。というわけでそのルーツの地もピンポイントで紹介できることに。
佐々木さんのルーツは沙沙貴神社
日米で抑え投手として活躍した大魔神こと佐々木主浩(ささきかづひろ)は宮城県仙台市の出身。
ファッションモデルの佐々木希は秋田県秋田市。
宮本武蔵のライバル・佐々木小次郎は『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現在の福井県福井市浄教寺町)とされています。
全国各地で活躍する佐々木さん、実は、ルーツは非常に限られています。
数多い日本の苗字のなかでも、家系の出所がほぼ一系というのは渡辺さん、菊地さんとこの佐々木さんぐらいなものなのです。
滋賀県近江八幡市安土町、ゴールデンウィーク頃、釣り糸を垂れたような「うらしま草」がにょきにょきと咲き、5月中頃、「なんじゃもんじゃ」が一斉に雪のような白い花をつける沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は、全国で約70万人という佐々木さんの氏神。
佐々木さんは近江国蒲生郡佐々木(滋賀県近江八幡市安土町)が発祥。
安土町は信長が築いた安土城があり、安土桃山時代という時代の名にもなった地名です。
佐々木氏は近江国蒲生郡佐々木(滋賀県近江八幡市安土町)が発祥。
安土町は信長が築いた安土城があり、安土桃山時代という時代の名にもなった地名です。
まずは、由緒正しい佐々木姓のルーツで、佐佐木大明神を祀る沙沙貴神社を訪れてみましょう。
地元、近江八幡市安土町の話では、
「神話によれば、少彦名神(すくなひこなのかみ)がササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説からササキ神社が始まった」
とのこと。
沙沙貴神社の鳥居をくぐって低い石垣の続く参道を経て拝殿に向かうと、豪壮な茅葺きの楼門が現れます。
平安・鎌倉様式を継承して江戸時代中期に再建された茅葺きの楼門、東西廻廊と四国丸亀藩主・京極家によって弘化5年(1848年)に建築された重要文化財の本殿、権殿、拝殿などの社殿群は、佐々木さんならずとも、一度は訪ねてみる価値があります。
整然と条理が引かれた玉石が美しく、神紋の「七つ割り四つ目結」が瓦に、幕に、石柱に、楼門の脇に立てられた提灯(下の写真参照)に、本殿前の賽銭箱にも印されています。
祭神は当然のように、沙沙貴山君の始祖である大毘古神(おおひこのかみ)や宇多源氏の始祖である宇多天皇、佐々木(近江)源氏の始祖である敦実親王(あつみしんのう=宇多天皇の第八皇子)など四座五柱が祀られています。
この四座五柱の総称が「佐佐木大明神」で、佐々木源氏の氏神さまとして尊崇されているのです。
例年4月第1土曜には全国の佐々木さん必見の『沙沙貴まつり』(夜に沙沙貴神社で大松明に奉火)も齋行。
横浜にも佐々木さんゆかりの地が
佐々木源氏が歴史の表舞台に出たのは、治承4年(1180年)に源頼朝が平家打倒の兵を挙げた時。
佐々木秀義(ささきひでよし=近江国蒲生郡佐々木庄を領有した平安末期の武将)の息子5人(定綱、経高、盛綱、高綱、義清)が源頼朝の挙兵を助け、華々しい活躍をしたからです。
とくに四男の佐々木高綱(四郎高綱)は、『平家物語』、『源平盛衰記』にその活躍が描かれ、宇治川の戦いでは梶原景季(かじわらかげすえ)との先陣争いで有名。
このとき佐々木高綱は、源頼朝に与えられた名馬「生唼(池月)」(いけづき)にまたがり、「磨墨」(するすみ)に騎乗する梶原景季と先陣を争い勝利しています。
佐々木高綱の居館は現在の神奈川県横浜市港北区鳥山町にあったとされ、鳥山八幡宮(とりやまはちまんぐう)は領主・佐々木高綱が鎮守として祀ったと伝えられています。
祭神は武神として名高い弓術の達人、応神天皇(おうじんてんのう)で、かつての鳥山村の鎮守です。
また鳥山八幡宮から歩いて5分ほどのところにある小さな馬頭観音堂は、佐々木高綱が愛馬の「生唼(池月)」を祀った駒形明神の跡と伝えられています。
横浜市港北区鳥山町一帯、そして鳥山八幡宮は、佐々木さんのパワースポットに違いありません。
松江にも佐々木さんのルーツが
長野県松本市島立にあるの大宝山高綱院正行寺は、その佐々木高綱の建立と伝えられる古刹。
寺の縁起では出家して了智と名乗り、佐渡に流された親鸞(しんらん)に弟子入り、親鸞の常陸入りの際に信濃に正行寺を開いたとのこと。
ただし、了智は鎌倉時代末から南北朝時代の人で、時代的にズレがあり、直接佐々木高綱にはつながらないという説もあり定かでありません。
石川数正(いしかわかずまさ)が松本藩を開き、松本城を築いた際、正行寺を城下に遷しているため、松本には今でも2つの正行寺があります。
島根県松江市浜乃木にある善光寺(ぜんこうじ)も佐々木高綱による開基で、こちらにも没した地という伝承があり、墓も残されています。
本尊・金銅造阿弥陀如来立像は一光三尊のいわゆる善光寺如来の典型。
鎌倉時代初期の作で国の重要文化財、佐々木高綱の守本尊(まもりほんそん)と伝わっています。
日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や明治天皇没後の殉死で有名な乃木希典(のぎまれすけ)は、出雲源氏佐々木氏の子孫・佐々木高綱末裔を称したため、松江の善光寺には乃木希典の遺髪塔があります(佐々木高綱の次男・二郎左衛門尉光綱は出雲国野木に住し野木・乃木氏の祖となったという)。
やがて佐々木氏は嫡流である六角佐々木氏と京極佐々木氏に分かれ、六角、京極、三井、乃木、黒田、竹腰、谷、山崎など220余の姓が、今も佐々木源氏として全国に息づいているのです。
六角佐々木氏の居城は、近江・観音寺城
この六角佐々木氏の居城は、最大級の山城といわれる観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)。
近江・湖東平野の中心地に聳える観音寺山は、平安時代の末期から戦国時代に渡り、およそ400年間、近江源氏の佐々木氏、後に近江守護・六角氏の居城となっています。
標高432.7mの繖(きぬがさ)山の山上に築かれた観音寺城はもちろん「日本100名城」にも選定。
中世、守護職として近江国を支配した佐々木六角氏の居城跡は、曲輪や城戸口を形成している大石塁が全山を取巻き、難攻不落な巨大な城塞だったと推測できます。
織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興した際、六角氏は信長に反目し、ついに観音寺城は無血開城しています。
昭和44年〜45年の発掘調査で城跡(観音寺山)から石垣、石段、排水溝、井戸などが発見されています。
西国三十三所第32番札所の観音正寺は、聖徳太子創建と伝わる古刹。
観音寺城の一角にあり、佐々木六角氏の庇護を得て栄えています。
本堂と本尊は、平成5年の火災で焼失。
現在の木造入母屋造の本堂は平成16年の再建です。
佐々木さんは北海道・東北地方に多いお名前
もう一方、湖北の主であった京極佐々木氏は、伊吹山の麓、上平寺城(じょうへいじじょう/滋賀県米原市藤川)を本拠にしていました。
戦国時代には京極高清(きょうごくたかきよ)が北近江・上平寺に守護所を構え、守護大名への道を歩んでいますが、家臣・浅井氏の台頭で実権を失っているのです。
京極高次(きょうごくたかつぐ=母は浅井長政の姉で浅井氏の居城・小谷城で西端)は、妹・竜子が豊臣秀吉の側室になったこともあり、秀吉に仕え、悲願である京極氏の復興を果たしています。
関ヶ原の戦いでは、東軍に与して大津籠城戦の功績で小浜藩主になり、若狭一国を与えられて国持大名に昇進しています。
上平寺にある素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀る伊吹神社境内全域が京極氏の居館跡。
京極氏館跡や庭園跡、家臣屋敷跡、上平寺城跡、弥高寺跡といった京極氏関連の遺跡群は、史跡「京極氏遺跡 京極氏城館跡・弥高寺跡」に指定されています。
──佐々木氏一族といわれる人を挙げてみれば、安倍貞任、平清盛、建礼門院、児島高徳、角倉了以、出雲の阿国、山中鹿之介、黒田長政、鍋島直茂、藤堂高虎、池田輝政、生駒親正、伊達政宗、木村重成、佐々木小次郎、間宮林蔵、杉田玄白、三井高利、黒田清隆、西郷隆盛、乃木希典、大山巌、黒田清輝、東郷平八郎、松下幸之助など、いやはや大変なものですが、佐々木一族ということは今や死後になっています。
佐々木さんは北海道・東北地方に多く、4位の2.00%というシェア率を誇る大姓に。
さすがにTOPという県はありませんが、岩手県で2位(なんと4.82%)、3位が北海道(1.40%)、
青森県(2.12%)、秋田県(3.70%)、5位が島根県(1.04%)で、東海地方や南九州には少ない傾向にあります。
代表家紋は四つ目結(ゆい)で、結は氏族の団結を象徴している。他に亀甲、梅鉢、桧扇、柏、桐など。
協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
佐々木さんのルーツを探せ! | |
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