姉川古戦場

姉川古戦場

滋賀県長浜市南部を流れる姉川の野村橋一帯は、その川が血で染まったという激戦の地、姉川古戦場。織田信長の京・上洛途中にある小谷城の城主・浅井長政(あざいながまさ)は、織田家と盟友関係にありましたが、織田軍の朝倉攻めに際して、信長に反旗を翻し、ついに姉川の戦いへと向かうのです。

浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した地

浅井長政は、信長の妹・お市を妻にして織田信長と同盟を結びますが、信長とは険悪の越前(現・福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)とも朋友。
朝倉を攻めないという約束を反故にして、朝倉攻めを敢行した信長。
ついに元亀元年6月28日(1570年7月26日)、浅井・朝倉軍1万8000人と織田・徳川軍2万8000人が、姉川で激突することになったのです。

合戦は午前5時に始まり、午後2時に終わったといい、当初は浅井・朝倉軍が優勢で、織田軍は13段構えの陣を11段まで突破されるほどでしたが、徳川軍・三河武士の奮戦で戦況は逆転。
朝倉軍が後退、浅井軍は右翼から崩れたところに織田軍も盛り返し、ついに浅井・朝倉軍は小谷城へと敗走します。

小谷城が堅牢な山城であることから、織田・徳川軍は岐阜城に退き、この対立も膠着状態に。
浅井長政は本願寺勢力などと連携して抵抗を続けますが、3年後に小谷城は落城。
浅井長政は自刃し、浅井家は滅亡しています。

姉川の戦いの戦死者は浅井・朝倉軍1700人、織田・徳川軍800人、両軍で2500人と伝えられ、一帯には血原(ちはら)、血川橋(ちかわばし)という地名が今も残されています。

野村橋のたもとには姉川戦死者之碑が立てられていて、一帯が姉川古戦場であることを後世に伝えています。
野村橋のすぐ西に国道365号が通っていますが、これが往時の北国脇往還。
小谷城下を通り、越前、近江、美濃を結んでいました。
今では日本海側の加賀市と太平洋側の四日市市を結ぶ国道になっています。

姉川古戦場
名称姉川古戦場/あねがわこせんじょう
所在地滋賀県長浜市野村町
関連HPびわこビジターズビューロー公式ホームページ
電車・バスでJR北陸本線長浜駅から湖国バス伊吹登山口行きで27分、野村橋下車、徒歩すぐ
ドライブで北陸自動車道長浜ICから約4.2km
駐車場3台/無料
問い合わせ長浜市産業観光部観光振興課 TEL:0749-62-4111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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