大溝城

大溝城

天正6年(1578年)、津田信澄(つだのぶずみ=織田信澄/信長の甥)が安土城の支城として築いた城が、現在の滋賀県高島市にある大溝城。琵琶湖とその内湖(乙女ヶ池)を巧みに取り込み外濠とした水城で、鴻湖城(こうこじょう)とも呼ばれていました。縄張り(設計)は明智光秀と伝えられています。

浅井三姉妹・お初と京極高次が新婚生活を送った城

大溝城

築城に先立つ天正2年(1574年)頃、織田信長の命で津田信澄と明智光秀の娘が婚姻しているので、ともども信長の重臣だったことがわかります。
大溝城築城に際して、西側山麓を通っていた街道を城下へ付け替え、大溝湊の整備を行なっています。
打下地区には、平時は舟運や漁ろうに携わり、戦時には水軍に転換する集団を配置しているところなど、智将・明智光秀の縄張りとも推測できる戦略性です。

天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、義父と舅(しゅうと)という関係から謀反は津田信澄と明智光秀の共謀だという噂が流れ、謀反人という汚名を着せられて、堺の町外れで梟首(きょうしゅ=晒し首)になっています。

津田信澄亡き後、大溝城には天正10年(1582年)に丹羽長秀が、天正15年(1587年)には京極高次が入城しています。
京極高次とその妻・お初(浅井三姉妹の次女、姉が淀、妹がお江)は、この地で3年間の新婚生活を送っています。

元和の一国一城令で廃城となり、藩政時代は三の丸の大溝陣屋が藩庁に

大溝城

江戸時代には、元和5年(1619年)、伊勢上野藩から移封された分部光信(わけべみつのぶ)が2万石で入部し大溝藩が誕生。
しかし「元和一国一城令」で三の丸を除いて廃城となり、城は解体され、資材は甲賀郡水口の岡山城に転用されています。
以降は城はなく、三の丸に大溝陣屋が置かれていました。
現在、城跡には石垣が残るのみとなっていますが、城下町一帯は「大溝の水辺景観」として国の重要文化的景観に定められています。

高島市民病院が二の丸跡、その東側が野面積みの石垣が残る天守台のある本丸跡となっています。
城跡には駐車場がないため、車利用の場合は近江高島駅前第1駐車場(31台)などに駐車し、徒歩で。
大溝歴代の藩主を務めた分部家の霊廟は、円光寺にあります。

大溝城
名称 大溝城/おおみぞじょう
所在地 滋賀県高島市勝野
関連HP びわ湖高島観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR湖西線近江高島駅から徒歩5分
ドライブで 湖西道路真野ICから約24km
駐車場 近江高島駅前第1駐車場(31台/有料)
問い合わせ びわ湖高島観光協会 TEL:0740-33-7101/FAX:0740-33-7105
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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