石見銀山にある慶長6年(1601年)に石見奉行となった大久保石見守(大久保長安)の墓。大久保長安は、慶長10年(1605年)、浄土宗・大安寺を建立していますが(水害で荒廃し極楽寺に併合)、その境内に生前に築いたのが逆修塚。創建時の宝篋印塔は死後に壊され、寛政6年(1794年)再建の墓と功績を讃える碑が現存。
生前に自分の法名を付けて建てた逆修塚
大久保長安は、甲斐・武田信玄の家臣(蔵前衆)で黒川金山の開発などに携わりましたが、武田氏滅亡後、徳川家康に見いだされ、関ヶ原合戦直後に徳川家が石見銀山を直轄すると石見銀山検分役、さらに初代石見銀山奉行となりました。
大久保間歩の開発などその経営手腕は日本にシルバーラッシュをもたらしたといわれています。佐渡奉行、伊豆金銀山奉行も兼ねて天下総代官と称されていました。
江戸詰が中心の奉行職ですが石見には6回も訪れていることからいかに重要視していたかがわかります。
大久保長安は、慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために駿河において死去。
享年69歳。
死後、不正蓄財を行なったという罪状で埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体は掘り起こされて安倍川(現・静岡市)の河原で斬首・晒し首、さらに7人の男児と腹心は全員処刑されています(大久保長安事件)。
当然、石見銀山の宝篋印塔もいったんは壊されています。
この事件は本多正信・正純父子の陰謀とする説もありますが(『慶長年録』、『徳川実紀』)、毎年鉱山巡視の際には、遊女70~80人を含めた250人(伝馬・人夫は別)を引き連れるなど、その豪奢な生活は有名で、没後に家康が断罪したとも推測できます(没時、石見銀山は衰退過程にありました)。
逆修塚(自分の死後の冥福を祈って生前に建てた塚)は、死後の功徳(くどく)が大きいとされ、温泉津の愛宕神社、恵珖寺(えこうじ)にも大久保長安の逆修塚(再建)があるほか、佐渡・相川の大安寺にも大久保長安逆修塔が現存しています。
大久保長安の位牌は、石見銀山資料館に展示されています(豪奢な生活を好んだ長安らしい金色の輝く位牌です)。
大久保石見守墓 | |
名称 | 大久保石見守墓/おおくぼいわみのかみはか |
所在地 | 島根県大田市大森町 |
関連HP | 大田市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR大田市駅から石見交通バス川本線(世界遺産センター行き・大森行き)で26分、大森代官所跡下車、徒歩10分 |
ドライブで | 山陰自動車道(仁摩温泉津道路)仁摩・石見銀山ICから約7.8kmで世界遺産センター |
駐車場 | 交通規制のため世界遺産センター駐車場(石見銀山駐車場400台)を利用し、路線バスで大森代官所代官所跡バス停へ |
問い合わせ | 大田市観光振興課 TEL:0854-82-1600/FAX:0854-82-9150 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag