甘泉園公園

新宿区立の公園で、江戸時代には徳川御三家・尾張徳川家の拝領地、後に御三卿清水家の江戸下屋敷だった地。現存する新宿区立公園では唯一の回遊式庭園は、この大名庭園を起源とするもの。明治時代には、子爵・相馬邸の庭園として整備されました。ツツジ、アジサイ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪吊りと四季を感じさせる庭園です。

御三卿・清水家の下屋敷にあった大名庭園がルーツ

甘泉園公園

9代将軍家重の次男・徳川重好は、分家して、江戸城北の丸清水門内に邸を構えて清水家と名乗ります。田安家、一橋家とともに将軍家に跡継ぎがない時には後嗣を出す資格を有する御三卿を形成しました。

その清水家の下屋敷だったのが甘泉園ですから、御三卿・清水家ゆかりの名園ということに。
江戸時代には、武蔵野台地と、神田川・江戸川の渓流、台地の崖下に湧く泉という江戸屈指の景勝地だったのです。

甘泉園」という風雅な名は、ここから湧く泉がお茶に適していたところから付けられています。神田川を隔てた対岸には、江戸時代には熊本藩細川家下屋敷の庭園(現・肥後細川庭園)、久留里藩黒田家下屋敷の庭園(現・椿山荘)があり、明治時代にはそれぞれ細川家、山県有朋の所有となりました。

「甘泉園」は、昭和13年に早稲田大学の所有となり、昭和44年に新宿区に移管されて区立公園になっています。
隣接の水稲荷神社(戸塚稲荷神社)、甘泉園住宅(現・公務員住宅)も往時には「甘泉園」の敷地でした。

みどりの新宿30選、日本の歴史公園100選にも選定されています。

  • 甘泉園公園
  • 甘泉園公園

江戸切絵図に見る 清水家下屋敷(甘泉園公園)

清水家下屋敷の南側には現在の地名の由来ともなった高田馬場があり、賭け的(物をかけて的を射る遊び)などの余興があったので、雑司が谷の鬼子母神に参拝する庶民にとって欠かせない行楽の場となっていました。

東側は、現在は早稲田大学の校舎が建ち並んでいますが、水稲荷の旧社地、宝泉院(宝泉寺)、井伊掃部頭(松平讃岐守=彦根藩)の下屋敷だった場所です。早稲田大学の大隈庭園(おおくまていえん)も、前身は井伊掃部頭邸(彦根藩江戸下屋敷)の大名庭園です。

早稲田大学の合格祈願で知られる法泉寺の本堂は、大隈重信公銅像あたりにありました。
切絵図には富士講の人たちがつくった高田富士の姿も描かれています。

清水家下屋敷の北側を流れる神田川には姿見橋の名も。広重の版画にも描かれた姿見橋は、面影橋のことという説もありますが、ここではキッチリと姿見橋と表記されています。

江戸切絵図に見る 清水家下屋敷(甘泉園公園)
甘泉園公園
名称 甘泉園公園/かんせんえんこうえん
所在地 東京都新宿区西早稲田3-5
関連HP 新宿区公式ホームページ
電車・バスで 都電面影橋から徒歩1分。東京メトロ早稲田駅から徒歩7分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 新宿区みどり土木部みどり公園課 TEL:5273-3914
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
水稲荷神社

水稲荷神社

天慶4年(941年)、鎮守府将軍・俵藤太秀郷朝臣が、旧社地(現在の早稲田大学9号館法商研究棟)の富塚の上に稲荷大神を勧請したのが創始という古社、水稲荷神社。元禄15年(1702年)、大椋(おおむく)の木の下に霊水が湧出し、眼病に効能があった

椿山荘庭園

地元で「バッケ」と呼ばれる目白崖線(めじろがいせん)に沿って、台地から神田川の渓谷へと下る地形を巧みに活かした庭園が、結婚式や宴会場、そしてホテルとしても名高い椿山荘(ちんざんそう)の庭園。江戸時代には上総国(かずさのくに/現・千葉県)、久

肥後細川庭園(新江戸川公園)

幕末には熊本藩細川家下屋敷の庭園だった場所。明治15年には華族となった細川家の本邸になり、昭和35年に東京都が購入し、昭和36年に公園として開園。さらに昭和50年から文京区立新江戸川公園として開放されていました。平成29年春から肥後細川庭園

江戸城 清水門(重要文化財/北の丸公園)

江戸城北の丸(現・北の丸公園)の東門。高麗門と渡櫓門からなる門は、江戸時代のものが現存し、国の重要文化財に(文化庁の管理)。清水門という名の由来は、家康入府で江戸城が築城される以前、中世には清水寺が建っていたとか、清水が湧き出す土地だからと

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ