春の小川歌碑

渋谷区を流れる宇田川(うだがわ)の上流、明治神宮・代々木公園の西縁、小田急線沿いを流れていたのが河骨川(こうほねがわ)で、戦前はのどかな農村風景が広がっており、国文学者・高野辰之は、春に花咲く河骨川を散策し、有名な『春の小川』を作詞、大正元年に発表、文部省唱歌となりました。代々木5丁目には歌碑が立っています。

渋谷区代々木3丁目には高野辰之のほかに、田山花袋も住んでいた!

歌碑の背後を小田急の特急「ロマンスカー・EXE(エクセ)(30000形)」が走る

高野辰之は、東京府豊多摩郡代々幡村(現・渋谷区代々木3-3/高野辰之住居跡)に明治42年から居を構えており、そこを流れる河骨川は、その名の通りコウホネが咲く川でした。
それで『春の小川』を作詞したのだとされていますが、長野県下水内郡豊田村(現・中野市永江)の出身のため、故郷・信州の川という説もあり、定かではありません。

しかし、田山花袋は明治39年に代々木3-9に移り住み、菱田春草も代々木3-49に明治44年に転居していますから、一帯が文人や画家たちにとっては暮らしやすい環境だったことは間違いなく、高野辰之も娘を連れて、河骨川をよく散歩しました。

コウホネは、河骨川の水源地の一つでもある山内侯爵邸(代々木4-26)にも咲いていたほど、ポピュラーな花で、河骨川周辺には群生していたのです(その子孫と思える株が鍋島松濤公園に移植されています)。

戦後、急速に都市化が進むにつれ、昭和25年に「東京都市計画下水道」の告示。
さらに、昭和36年、「東京都市計画河川下水道調査特別委員会答申」を経て、渋谷川は宮益橋から上流の区域を暗渠化を決定。
東京オリンピックの開催に向けて、公共下水道を普及されるために、河骨川も宇田川も暗渠となり、オリンピックが開催される昭和39年ころまでに下水道「千駄ヶ谷幹線」となりました。

田を潤していた時代の面影はありませんが、小田急のロマンスカーが走り抜ける線路脇に『春の小川』の歌碑が立っています。

『春の小川』 大正元年『尋常小学唱歌 第四学年用』歌詞

1.
春の小川はさらさら流る。
岸のすみれやれんげの花に、
匂いめでたく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやく如く。

2.
春の小川はさらさら流る。
蝦やめだかや小鮒の群に、
今日も一日ひなたに出でて
遊べ遊べと、ささやく如く。

3.
春の小川はさらさら流る。
歌の上手よ、いとしき子ども、
声をそろえて小川の歌を
歌え歌えと、ささやく如く。

『春の小川』 昭和22年文部省音楽教科書『三年生の音楽』歌詞

1.
春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやきながら。

2.
春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、小鮒の群れに、
今日も一日ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。

春の小川歌碑
名称 春の小川歌碑/はるのおがわかひ
所在地 東京都渋谷区代々木5-65-4
電車・バスで 小田急電鉄代々木八幡駅、東京メトロ千代田線代々木公園駅から徒歩5分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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