島根県大田市静間町の海岸にある海蝕洞が静之窟(しずのいわや)。高さ15m、幅30m、奥行45mの海蝕洞で、出雲神話で大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が国造りの際に石窟を仮住まいとしたという伝承があります。崩落の危険があるため、現在では洞内には立入禁止になています。
出雲神話の志都乃石室に比定される海蝕洞
地質的には火山角礫岩と凝灰岩で、亀裂や、弱い岩質の部分が波で浸食され、巨大な海蝕洞が誕生しました。
『万葉集』(巻3-355)に収録される生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)が「大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経(おほなむち すくなひこのいましけむ しつのいわやは いくよへにけむ)」と歌った「志都乃石室」(しづのいわや)ではないかとする説がありますが、定かでありません。
大国主命と少彦名命の国造り伝承に由来する志都乃石室は、平田篤胤(ひらたあつたね)が『古史伝』19巻で静之窟に比定していますが、生石神社の石乃宝殿(兵庫県高砂市)、志都岩屋神社の岩屋(島根県邑南町)とする説もあるのです(実在するかどうかもわかりませんが)。
平田篤胤が静之窟に比定したのは、霹靂神社神職・竹内正業の説(石見国安濃郡静間村)を採用したため。
江戸時代の国学の隆盛とともに、出雲神話と海蝕洞を結びつけるという風潮が生まれたのです。
平安時代の仁和2年(886年)には洞窟内に静間神社が創建され、江戸時代には洞窟近くの浜に滝の前千軒という集落がありましたが、明暦2年(1656年)の大津波で流出(この津波に関しては伝承の域を出ません)、延宝2年(1674年)の静間川の大洪水で崖が崩壊、静間神社の社殿も丘上にある垂水地区に遷されています。
なお、静之窟へと続く車道途中に、近藤ヶ浜ハマナス自生地への入口があります。
画像協力/島根県、洞内に立ち入りできる時に撮影した画像が含まれています
静之窟 | |
名称 | 静之窟/しずのいわや |
所在地 | 島根県大田市静間町 |
電車・バスで | 山陰本線大田市駅からバスで10分、静間平口(しずまひらぐち)下車、徒歩20分 |
ドライブで | 山陰自動車道出雲多伎ICから約21km |
問い合わせ | 大田市教育委員会 TEL:0854-82-1600 |
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