高岡城(高岡古城公園)

富山城に隠居した加賀藩2代藩主・前田利長が1609(慶長14)年築城した高岡城の城址。隠居城として使われたのは短期間で1615(慶長20)年の一国一城令で廃城となっています。「日本100名城」にも富山県で唯一選ばれ、日本さくら名所100選、さらには日本の歴史公園100選、日本の都市公園100選にも選定されています。

加賀藩2代藩主・前田利長が築城

高岡城 Photo Map

1605(慶長10)年に富山城に隠居した加賀藩2代藩主・前田利長ですが、1609(慶長14)年、富山城下の大火の際に富山城も類焼。
魚津城に移り、当時の関野(現・高岡)に城を築きました。
縄張を担当したといわれるのは、当時加賀で暮らした高山右近(たかやまうこん)といわれています(異説もあり定かでありません。最近の研究では利長自らが縄張をした可能性が指摘されています)。

突貫工事で築城された隠居目的の城であったため、天守は築かれなかったと想像できます。

1614(慶長19)年5月20日に前田利長は死去(享年53歳)し、さらに翌年の1615年(元和元)年には一国一城令で廃城になっています。
加賀藩は大坂夏の陣から凱旋する加賀藩3代藩主・前田利常を高岡城に迎えたのを最後に、城としての機能を終わらせています。

その後は、高岡町奉行所の管理下として、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、瑞龍寺、利長公墓所などとともに東に備える防御機能として密かに濠などを維持していました。

本丸広場横にある前田利長公像
本丸弓道場の裏に現存する井戸

水堀と曲輪の保存率は日本一!

明治維新後の明治8年、高岡公園(現・高岡古城公園)として整備が始まり、市民の憩いの場となりました。
明治36年〜明治40年頃には、京都の高名な庭師である7代・小川治兵衛(「植治」)の弟子・廣瀬萬次郎による庭の設計、古城の滝造成など庭園の改築工事が行なわれています。

今も往時の町割りを残す高岡市内中心部に位置し、総面積21万平方メートルのうち城の名残を残す濠は、37%を占めています。
往時の曲輪(くるわ)は本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸の5ヶ所。
水堀と曲輪の保存率は日本一といわれています。

越中国総鎮守の射水神社(いみずじんじゃ=神仏混淆時代には二上山大権現)が高岡城の本丸跡に鎮座しています(明治8年に遷座)。
本丸には芝生で覆われた本丸広場があるほか、本丸広場に隣接する「芸術の杜」には高岡の伝統的技術の粋を集め鋳造した日本の代表的な彫刻家の作品18点が展示されています。

高岡市立博物館(鍛冶丸/日本100名城スタンプ設置)や高岡古城公園動物園(明丸)、高岡市民会館(二の丸)、高岡市体育館(三の丸)などの施設が揃い、三の丸跡にある「三の丸茶屋」では休憩や土産の購入、レンタサイクルの借用が可能。

園内は「日本さくら名所100選」選定の桜の名所としても知られ、23種2700本のサクラが植栽されています。
昭和8年11月5日に古城公園を散策した与謝野晶子は、歌を詠み「館などさもあらばあれ海越えて 羅津に対す本丸の松」の歌碑も立てられています。
与謝野晶子は高岡古城公園でこのほか「紅葉散る朝陽橋をわが越えて 丘に出づれば白し立山」など計5首を詠んでいます。
夫である鉄幹も歌碑の「高岡の街の金工たのしめり 詩のごとくにも鑿(のみ)の音を立つ」など計7首詠んでいます。

高岡城(高岡古城公園)
名称 高岡城(高岡古城公園)/たかおかじょう(たかおかこじょうこうえん)
所在地 富山県高岡市古城1-6
関連HP 高岡古城公園公式ホームページ
電車・バスで あいの風とやま鉄道高岡駅から徒歩10分
ドライブで 北陸自動車道小杉ICから約10km、能越自動車道高岡ICから約6km
駐車場 小竹藪駐車場(80台/無料)、北口駐車場(50台/無料)、土・日曜、祝日は高岡市職員駐車場・文化の森駐車場が利用可能
問い合わせ 古城公園管理事務所 TEL:0766-20-1563/FAX:0766-26-2086
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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