和歌山県田辺市、紀伊田辺駅南東、仮庵山(かりおやま)の麓にある古社が闘鶏神社(鬪雞神社)。祭神は熊野十二神で、交通の要所でもあることから中世、近世には新熊野合権現として繁栄。平家を支援した熊野別当家との縁が深いのですが、熊野水軍を率いた湛増(たんぞう)は源平合戦の際、闘鶏(とうけい)占いで源氏に味方し、闘鶏神社と呼ばれるように。
伝「武蔵坊弁慶生誕の地」としても知られています
八百萬客殿は木造檜皮葺熊野十二社造で創建当時のまま。
現存する社殿は元和5年(1619年)の建立を最古として、延宝・貞享年間に建立された。また定かではないが、湛増の子と伝わる武蔵坊弁慶の生誕地として、弁慶神社、弁慶松など、弁慶ゆかりの旧跡も多い。
社伝によれば創建は允恭天皇8年9月、つまりは5世紀まで遡るという古社。
白河法皇の時代に熊野三所権現(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を観請し、熊野三山の別宮的な存在となりました。
田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点にあたるため、熊野参詣の折にはここに参拝して諸願成就を祈願したのです。
ここに参拝して三山を遥拝することで三山参詣に代える人もいたのだとか。
21代熊野別当・湛増(たんぞう)は、源平合戦の際に、闘鶏を源平の旗色同様に紅白に分け、これを戦わせた結果(闘鶏占い)、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したと伝えられています(『平家物語』)。
また、湛増が武蔵坊弁慶の父だという伝承もあり、境内に湛増と弁慶の像が立っています。
弁慶は、『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だといわれていますが定かではありません。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも義経郎党のひとりとして名が記されているのみで、その活躍のほとんどは後世の創作。
本殿各殿の横一列に並ぶ配列や形式は、熊野本宮大社が明治22年の水害で流失した旧社殿の姿を模し、熊野信仰に関係する建築として貴重。
世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産にもなっています。
境内には、田辺藩初代藩主で幕府老中を務めた安藤直次(あんどうなおつぐ)を顕彰して明治19年に建立された藤巖神社(とうがんじんじゃ)があります(藤巖は直次の法名「藤巖院殿崇賢居士」から)。
安藤直次は痩せた土地を活用し、梅の栽培を奨励する農業政策を採用、現在の田辺市、みなべ町を中心とした梅の栽培、発展につながったのです。
仮庵山のことを南方熊楠は、クラガリ山と呼び、「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と述べ、老楠が伐採されたとき、熊楠は猛烈に抗議ししているのです。
南方熊楠の妻は当時の鬪雞神社宮司・田村宗造の四女・松枝(まつゑ)。
地元には熊楠・松枝の夫婦のエピソードも伝わります。
闘鶏神社 | |
名称 | 闘鶏神社/とうけいじんじゃ |
所在地 | 和歌山県田辺市湊655 |
関連HP | 田辺市公式ホームページ |
電車・バスで | JR紀伊田辺駅から徒歩5分 |
ドライブで | 阪和自動車道南紀田辺ICから約4km |
駐車場 | 30台/有料 |
問い合わせ | 闘鶏神社 TEL:0739-22-0155/FAX:0739-26-7033 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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