引接寺

引接寺

山口県下関市にある浄土宗の寺で、晩年、豊臣秀吉に信任された小早川隆景(こばやかわたかかげ)の菩提寺が引接寺(いんじょうじ)。一帯の唐戸地区は文字通り、唐(中国)への戸(玄関口)。山陽道の起終点にもあたる交通の要衝で、江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所、下関条約の清側全権・李鴻章の宿泊所にもなっています。

日清講和条約・清国全権大使の宿所にも

引接寺
三門の龍

引接寺(いんじょうじ)は戦国時代には大内・大友氏の戦場にもなった豊前国京都(みやこ)郡黒田村(現・みやこ町勝山上田)から、永禄3年(1560年)、一徳和尚が唐戸(下関)に移した寺。
慶長3年(1598年)に小早川隆景(毛利元就の三男)の霊を弔うため、小早川隆景の遺言で息子・小早川秀秋が現在の地に堂宇を建立しています。

江戸時代には阿弥陀寺(現・赤間神宮)とともに朝鮮使節使(李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団=正式名:朝鮮聘礼使)の宿泊所として使われ、明治28年4月17日の日清講和条約(下関条約)締結の際には、清国全権大使(欽差大臣)・李鴻章(りこうしょう/リ・ホンチャン)一行の宿所ともなっています。
交渉の会場は料亭「春帆楼」(しゅんぱんろう)で、日清戦争の戦後補償に関する交渉は難航したため、たびたび春帆楼へと通うこととなり、引接寺と春帆楼を結ぶ裏道は「李鴻章道」という名がついています。
交渉が難航する3月24日には、輿(こし)に乗って李鴻章が引接寺に戻る途中、小山豊太郎に銃撃される事件も起こっています。
弾丸は李鴻章の左目の下に命中、命からがら引接寺に逃げ帰り、引接寺に滞在しながら治療を受けています。
李鴻章負傷のため4月10日まで交渉は中断しますが、顔に銃弾がめり込んだまま、李鴻章は講和交渉に戻っています。
それまで大通りを通っていたのを、裏道に変え、その細い道が「李鴻章道」と名付けられています。

現在の本堂は、平成8年、日清講和条約締結100周年を記念して建立されたもの。
昭和20年の下関大空襲で宿泊所となった建物は焼失し、現存していませんが、焼失を免れた三門には怪物に化けたという伝説の龍の彫刻があり、往時の隆盛と格式を偲ぶことができます。
龍の彫刻の伝説は、江戸時代末期、引接寺の前を通りかかった人が次々襲われる事件が発生、その犯人は三門の彫刻の龍で、武士によって龍は退治されたというもの。
龍の胴体を観察すると、刀で切られた痕があります。
あまりに見事な龍のため、生きて出てきたという話で、その彫刻は日光東照宮に残る「眠り猫」で知られる左甚五郎(ひだりじんごろう)の作という伝承も。

名称 引接寺/いんじょうじ
所在地 山口県下関市中之町11-9
関連HP 下関市公式観光サイト
電車・バスで JR下関駅からサンデン交通バス山陽方面行きで10分、赤間神宮前下車、徒歩6分
ドライブで 中国自動車道下関ICから約3km
駐車場 下関市赤間町駐車場(300台/有料)
問い合わせ TEL:083-222-0514
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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