山口県萩市椿東、松陰神社(しょういんじんじゃ)境内、駐車場の横にあるのが、薩長土連合密議之処碑(さっちょうどれんごうみつぎのところのひ)。明治百年記念で昭和43年に建立された碑ですが、この石碑が立つのが実は鈴木勘蔵の宿があった場所で、薩長土連合のきっかけを生み出しました。
久坂玄瑞と坂本龍馬が密談した宿の跡
長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい=長州藩における尊王攘夷派の中心人物、妻は吉田松陰の妹・文)の日記『江月斎日乗』(こうげつさいにちじょう)には、文久2年1月14日(1862年2月12日)、土佐藩士・坂本龍馬が、の武市瑞山(たけちずいざん=土佐勤王党の盟主、武市半平太)の書簡を持って久坂玄瑞を訪ねて来萩し、この鈴木勘蔵の宿に泊まったと記されています。
翌1月15日、一行は「他国文武修行者宿」(萩藩が幕末に設けた他国者のための無料宿泊施設/現・萩地方裁判所の西)に移っています。
本来は、讃岐での剣術修行という名目で旅費が出ていましたが、武市瑞山の密命で、書簡を久坂玄瑞に届けるという大役を担っていたのです。
10月下旬に坂本龍馬は萩に着いていましたが、9月7日から久坂玄瑞は江戸への旅に出ており不在だったため、坂本龍馬は、土佐藩に対し、「芸州砂防の立ち越、詮議致し度」と来萩の名目が剣術修行であることを伝え、脱藩を逃れるため、2月までの延長を願い出ています。
こうしてようやく実現したのが久坂玄瑞と坂本龍馬の面談だったのです。
この時、偶然にも薩摩藩士・田上藤七(薩摩藩の史料には登場しない謎の人物/田中藤八の変名とも)が樺山三円(かばやまさんえん=藩主島津斉彬の茶坊主で、薩摩、長州、水戸、土佐各藩の連携に貢献)の書簡を手に久坂玄瑞の宿所を訪ねていたため、長州、薩摩、土佐の志士たちの密談が生まれたのです。
十四日、曇、土州坂本龍馬、武市書翰(しょかん)携え来訪、松洞(松浦)に托(たく)す。
十五日、晴、龍馬来話、午後、文武修行行館へ遣わす。
廿一日、晴、土人の寓する修行館を訪、中谷(正亮)と同行。
廿三日、晴、是日を以、土州人去る
2月23日に萩を離れるまで、坂本龍馬は久坂玄瑞に3度面談し、勤王運動に関して意見を交換しています。
坂本龍馬は、土佐藩内を勤王の藩論で統一するのは厳しいため、長州藩、薩摩藩をも巻き込んでの土佐藩の意見統一と倒幕を目指したのです。
久坂玄瑞は武市瑞山宛の返書を、萩を去る坂本龍馬に託しています。
「此(こ)のたび坂本君御出浮あらせられ、腹臓なく御談合候事、委細御聞取り願い奉り候、ついに、諸侯たのむに足らず、公卿(くぎょう)たのむに足らず、草莽(そうもう)志士糾合、義挙の外にはとても策これなく事と、私共同志中申し含みおり候事に御座候、失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大義なれば苦しからず、両藩共存し候とも、恐れ多くも皇緒綿々」
その後、坂本龍馬は土佐藩の政策に反対し脱藩しますが、それを暗示し、将来の薩長土連合へとつながる第一歩だということから、「薩長土連合密議之処」の碑が立てられたのです。
松陰神社・薩長土連合密議之処碑 | |
名称 | 松陰神社・薩長土連合密議之処碑/しょういんじんじゃ・さっちょうどれんごうみつぎのところのひ |
所在地 | 山口県萩市椿東松本 |
関連HP | 萩市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR東萩駅から萩循環まぁーるバスで、松陰神社前下車、すぐ |
ドライブで | 中国自動車道山口ICから約44km |
駐車場 | 松陰神社駐車場(64台/無料) |
問い合わせ | 萩市観光協会 TEL:0838-25-1750/FAX:0838-25-2073 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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