山梨県富士吉田市、日本武尊(やまとたける)が東征のおり、神社近くの大塚丘から富士を遥拝したのが起源と伝えられる古社で、世界遺産富士山(「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」)の構成資産のひとつ。富士山に登る吉田口登山道の起点で、毎年6月30日のお道開きの神事が境内の登山門で行なわれています。
戦国時代、武田信玄も尊崇
主祭神は、富士山信仰の木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
入口から本殿へと続く参道は、182基もの苔むした石灯籠が並び、厳かな雰囲気で時代劇のロケにもよく使われる場所。
参道の冨士山大鳥居は木造では日本一の大きさを誇り、青龍の口から湧き出る霊水は3km離れた富士山中から引水しています。
享保18年(1733年)、江戸の富士講六世・村上光清が各地で寄進を募り、近世初めに荒廃した社殿を再興、拝殿及び幣殿、神楽殿、手水舎(てみずしゃ)、隨神門、福地八幡社なども壮麗な礼拝空間を生み出しています(いずれも国の重要文化財)。
諏訪神社は、もともと富士吉田の氏神ですが、明治維新後に北口本宮の摂社となっています(諏訪神社拝殿は国の重要文化財)。
北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の祭礼が、8月26日〜8月27日に行なわれる有名な『吉田の火祭り(鎮火祭)』です。
桃山時代建築の本殿、武田信玄造営の東宮本殿、室町末期造営の西宮本殿は、いずれも国の重要文化財。
本殿左側にある東宮本殿は1561(永禄4)年、武田信玄が川中島の勝利を祈願してあらたに本殿として建築されたもので、のちに現在地に移されています。
1565(永禄8)年にはのちに織田信忠と婚約する六女・松姫の病気平癒を祈願。
河口湖畔にある冨士御室浅間神社(武田三代の祈願所として信玄公自筆の「安産祈願文」や信玄公自刻の座像がある)とともに信玄の崇敬を受けた神社なのです。
富士山信仰と富士講
青木ヶ原を生み出し、山麓の湖を分断した貞観6年(864年)の大噴火など、平安時代の初期、富士山は噴火を繰り返し、これを富士山の怒りと考えたことから、富士山を鎮めるために富士山の神を浅間大神として周辺に祀っています。
そのひとつが、北口本宮冨士浅間神社。
平安時代末期、噴火活動が収まると、僧侶や修験者が富士山に登拝し、日本古来の神と仏教の仏は一体であるという神仏習合の思想から、独特な富士山信仰が生まれます。
中世には富士山には浅間大神(=富士山)の本来の姿(本地仏)とされる大日如来など、多くの仏像が奉納され、仏教的な色彩が強くなります。
そんななかで、中世の終わりに、長谷川角行(はせがわかくぎょう)が富士山信仰を独自のかたちに集大成し、近世(江戸時代)に、教義を受け継いだ弟子たちによって「富士講」として広まっていきます(江戸の町には八百八講あったといわれています)。
冨士登拝のガイド役だったのが御師(おし)で、富士吉田にも登山基地の宿坊的な存在として、御師の家並みが形成され、多くの富士講の信者を集めたのです。
富士山信仰の中心は、富士宮の富士浅間大社ですが、富士山の北口においては、北口本宮冨士浅間神社がまさに富士山信仰の中心として繁栄してきたのです。
北口本宮冨士浅間神社 | |
名称 | 北口本宮冨士浅間神社/きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ |
所在地 | 山梨県富士吉田市上吉田5558 |
関連HP | 北口本宮冨士浅間神社公式ホームページ |
電車・バスで | 富士急行線田野倉駅から徒歩20分 |
ドライブで | 中央自動車道河口湖ICから約2km |
駐車場 | 150台/無料 |
問い合わせ | 北口本宮冨士浅間神社 TEL:0555-22-0221/FAX:0555-24-5221 |
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