山梨県南巨摩郡富士川町最勝寺、明治9年に建てられた西洋風建築の小学校(旧舂米学校校舎)を資料館として再生したのが富士川町民俗資料館(旧舂米学校校舎)。藤村式建築(ふじむらしきけんちく)と呼ばれる擬洋風建築の校舎は、バルコニーや2段手すりがあり、当時としてはかなりモダンなもの。
明治9年築のお洒落な学校建築
藤村式建築(ふじむらしきけんちく)とは、山梨県令として明治6年に着任した(1月の着任当初は山梨権令、10月から県令)藤村紫朗(ふじむらしろう)の指導の下で建てられた擬洋風の学校建築のこと。
甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)は国の重要文化財に指定されています(旧舂米学校校舎は山梨県の文化財)。
ただし、擬洋風建築の学校建設は、山梨県や県令・藤村紫朗が指示したわけでなく、地元の棟梁が当時の流行を取り入れ、見様見真似でそれぞれの形を生み出したと推測されています。
それでも当時、山梨県内では住民の私財が投入され、労力奉仕などにより36校の藤村式建築が建設されているのです。
舂米学校は、明治9年9月24日に開校(現在の舂米公民館の場所)。
施工は藤村紫朗の命で県庁舎なども手掛けた甲府の小宮山弥太郎と、地元舂米の大工が請負っています。
舂米学校校舎は、一村一校制により、舂米学校、青柳学校が統合され、明治21年に現在の増穂小学校体育館の位置に増穂尋常小学校本館として移築。
大正8年からは増穂村役場として利用されてきましたが、昭和41年、増穂町役場新庁舎の完成で、昭和49年、現在の位置に移築、民俗資料館(当初は増穂町民俗資料館、平成22年に増穂町と鰍沢町が合併で富士川町民俗資料館に)になっています。
六角形の当部分には太鼓が吊るされ、時を告げていたので、太鼓堂とも呼ばれていました。
1階には教室で使われていた備品、2階は当時の成績表などを展示。
寺子屋時代から現在までの教科書や、かるたなども展示されています。
富国強兵政策を背景に、愛国精神を盛り込んだ明治時代後期、大正デモクラシーを反映した大正時代、そして国家主義的、軍国主義的な思想を次第に強めていった第二次世界大戦前など、教科書によって、歴史の変遷を知ることができます。
ちなみに、山梨県内に現存する藤村式建築は、舂米学校(富士川町、現・富士川町民俗資料館)、睦沢学校(甲府市、現・甲府市藤村記念館)のほか、 津金学校(北杜市、現・津金学校)、尾県学校(都留市、 現・尾県郷土資料館)、室伏学校(山梨市、現・牧丘郷土文化館)の5ヶ所で、官公庁としては、東山梨郡役所庁舎が博物館明治村(愛知県犬山市)に昭和39年に移築され、現存しています。
富士川町民俗資料館(旧舂米学校校舎) | |
名称 | 富士川町民俗資料館(旧舂米学校校舎)/ふじかわちょうみんぞくしりょうかん(きゅうつきよねがっこうこうしゃ) |
所在地 | 山梨県南巨摩郡富士川町最勝寺320 |
関連HP | 富士川町公式ホームページ |
電車・バスで | JR市川大門駅からタクシーで10分 |
ドライブで | 中部横断自動車道増穂ICから約1.8km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 富士川町教育委員会 TEL:0556-22-5361 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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