長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡(医王寺)

長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡(医王寺)

愛知県新城市長篠、曹洞宗の寺・医王寺一帯が、長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡。天正3年(1575年)の長篠の戦いの際、医王寺の裏山に武田勝頼は本陣を置いています。丘陵の先端部で比高が30mほどある天然の要害で、長篠城包囲における武田軍の各陣をくまなく展望、掌握することができました。

長篠の戦いで武田勝頼は医王山に本陣を構えた

長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡(医王寺)

600mの南方に徳川方が籠城する長篠城があり、豊川下流方向からの長篠城救援の織田・徳川連合軍が近づくことも視界に入るという絶好の立地でした。
つまり、武田勝頼側は、長篠包囲を掌握する、救援軍を迎え討つ、徳川家康軍との直接対決という要素を考慮し、この医王寺を本陣に選んだのです。
医王寺の裏山・医王寺山頂には物見櫓が再建され、長篠城や新東名高速道路を一望にします(医王寺正門近くから遊歩道で10分ほど)。

医王寺は永正11年(1514年)の創建で、医王寺の境内地と裏山一帯に曲輪(くるわ)を構築し、3000の兵を配して本陣を構えています。
残念ながら医王寺境内には本陣の遺構は確認できません。

徳川・織田連合軍は、武田軍の騎馬隊を迎え撃つため馬防柵を配置し、さらに鉄砲隊が布陣します。
数的に劣勢だった武田軍ですが、攻城戦に近い状況を鑑みて、重臣の馬場信春、山県昌景は退却を進言しますが聞き入れられず、天正3年5月21日(1575年6月29日)、戦いの火蓋が切って落とされます。
武田軍は、土屋昌次が戦死するなど徳川・織田連合軍の大軍を前に総崩れとなり、1万ともいわれる戦死者を出し、馬場信春を殿(しんがり)に伊那へと退却し、甲斐・天目山での武田家滅亡へとつながるのです。

長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡(医王寺)
名称 長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡(医王寺)/ながしのしたらがはらこせんじょう・たけだかつよりほんじんあと(いおうじ)
所在地 愛知県新城市長篠弥陀前2・5・6合
関連HP 医王寺公式ホームページ
電車・バスで JR長篠城駅から徒歩20分
ドライブで 新東名高速道路新城IC約5km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 医王寺 TEL:0536-32-0136
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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