都が東京に移った後の京都の発展の起爆剤とするため、琵琶湖の湖水を京都市街へと通し、発電、灌漑、さらには物資や旅客の運搬に活用しようという明治初期の一大プロジェクトが琵琶湖疏水建設。レンガや石で組まれた構造物には、明治の元勲など建設に関係した人の筆による扁額が飾られ、明治時代の心意気を感じることができます。
明治の国家的なプロジェクトとして琵琶湖の水を京都市街に通水
幕末の元治元年7月19日(1864年8月20日)、京から追放された長州藩が挙兵した禁門の変(蛤御門の変)で市中の大半を焼失。
さらに明治維新の廃仏毀釈で寺院の力が削がれ、多くの僧侶が失業した、さらに東京奠都による、公家などの流出は、西陣織など京の主産業に大きな打撃を与えました。
そこで明治14年に第3代の京都府知事となった北垣国道(きたがきくにみち)が計画したのが琵琶湖の水を京都に流すという壮大なプロジェクトです。
工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎(たなべさくろう)が設計を担いますが(卒業論文は、『隧道建築編』、『琵琶湖疏水工事編』)、明治21年に渡米先のコロラド州アスペンで視察した水力発電所をヒントに、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所の建設をプランに取り込み、結果として路面電車、蹴上インクラインを走らせる電源の確保につながっています。
国家的なプロジェクトのため、北垣国道は明治政府に働きかけ、結果として伊藤博文(明治21年まで首相、琵琶湖疏水開通時には初代枢密院議長)、山縣有朋(内務卿で、疎水開通時は内閣総理大臣)、井上馨(初代外務大臣、農商務大臣、明治25年には内務大臣)、西郷従道(さいごうつぐみち=初代海軍大臣、明治25年には元老として枢密顧問官に)という豪華メンバーの扁額が掲げられることに。
扁額の銘文・意味と記された場所は!?
萬物資始(ばんぶつとりてはじむ)=すべてのことがこれによって始まる(易経)/第2疏水取入口/久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)
氣象萬千(きしょうばんせん)=千変万化する気象と風景が素晴らしい(宋・岳陽樓記の一節)/第1トンネル東口(滋賀県大津市三井寺町)/伊藤博文
寶祚無窮(ほうそむきゅう)=皇威は永遠である/第1トンネルの内部(滋賀県大津市園城寺町)/北垣国道
廓其有容(かくとしてそれいるることあり)=悠久の水をたたえ悠然とした疏水の広がりは、大きな人間の器量をあらわしている/第1トンネル西口(大津市藤尾奥町)/山縣有朋
仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)=仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする(論語)/第2トンネル東口(京都市山科区)/井上馨
随山至水源(やまにしたがいてすいげんにいたる)=山に沿っていけば、水源にたどり着く/第2トンネル西口(京都市山科区)/西郷従道(さいごうつぐみち)
過雨看松色(かうしょうしょくをみる)=時雨が過ぎ去れば、一段と鮮やかな緑となる(唐・盧綸の詩)/第3トンネル東口(京都市山科区)/松方正義
美哉山河(うるわしきかなさんが)=なんと素晴らしい山河であろう・国の宝である美しい山河を守るには、為政者の徳と国民の一致が大切(史記・呉記列伝)/第3トンネル西口(京都市山科区)/三条実美(さんじょうさねとみ)
藉水利資人工(すいりをかりてじんこうをたすく)=自然の水を巧みに利用し、人の仕事に役立てる/疏水合流トンネル北口(京都市左京区)/田辺朔郎
雄觀奇想(ゆうかんきそう)=見事な眺めとすぐれた考えである/蹴上ねじりまんぽ南側(京都市左京区)/北垣国道
亮天功(てんこうをたすく)=民を治めその所を得さしめる(書経・舜典)/第2期蹴上発電所入口(京都市東山区)/久邇宮邦彦
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