岐阜県中津川市馬籠の中山道(なかせんどう)沿いにある石碑が「是より北木曽路」の碑。中山道の美濃国(現・岐阜県)・落合宿と信濃国(現・長野県)・馬籠宿(まごめしゅく)の境に位置する新茶屋は、街道を横切る小さな溝が、美濃と信濃の国境になっていました。
馬籠出身の島崎藤村の揮毫
「是より北木曽路」の碑は藤村記念館の落成10周年を記念して、昭和32年に建立。
中山道・新茶屋にある石碑で、碑に記された「是より北木曽路」の文字は、昭和15年7月、当時68歳だった島崎藤村が地元の要請によって揮毫(きごう)したもの。
島崎藤村が麹町区下六番町から出した「碑の文字のことはよろこんで引き受けませう 一九四○年七月六日 麹町六番町より(六八才)」という文章もあわせて彫られています。
中山道69次のうち、「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)という木曽路は11宿。
馬籠宿を南端に、妻籠宿(つまごしゅく)、三留野宿(みどのしゅく)、野尻宿、須原宿、上松宿(あげまつしゅく)、福島宿、宮ノ越宿、藪原宿(やぶはらしゅく)、奈良井宿、贄川宿(にえかわしゅく)と続き、贄川宿近くに、「是より南木曽路」の碑(昭和15年建立)が立っています。
昭和12年1月に島崎藤村は東京市麹町区下六番町17番地に転居し、昭和16年2月に神奈川県大磯町東小磯88番地に疎開するまで麹町で暮らしていました。
「是より北木曽路」の碑文原本は、馬籠宿の清水屋資料館に保管されています。
馬籠宿は、従来から中津川との関係が深く、合併運動も盛んで、かつては県を越えての合併賛成派と反対派に分かれ、「木曽ベルリン」などという呼び方もされたことも。
昭和の合併運動の際(昭和32年・神坂村の越県合併)には神坂村の峠・馬籠・荒町の三集落を長野県に残して山口村と合併し、残りを中津川市に合併。
その先には島崎藤村が反合併のシンボルともなったのです(『夜明け前』で有名な島崎藤村は、信州・木曽路のシンボルで、中津川に合併すると、馬籠が美濃路になってしまうため)。
しかし、生活圏は中津川のため、平成の大合併で馬籠周辺(山口村)は県をまたいで中津川市に合併したのです。
ちなみに馬籠宿のある山口村は、かつて木曽路が木材資源確保のため尾張藩領だったという歴史から、明治の初めに名古屋藩、名古屋県だったという不思議なエリアでもあるのです。
近くには中山道落合の石畳、新茶屋一里塚跡もあり、街道散策を楽しむことも可能。
「是より北木曽路」の碑 | |
名称 | 「是より北木曽路」の碑/「これよりきたきそじ」のひ |
所在地 | 岐阜県中津川市落合新茶屋 |
ドライブで | 中央自動車道中津川ICから約10.5km |
駐車場 | 落合石畳駐車場(5台/無料) |
問い合わせ | 中津川市文化振興課 TEL:0573-66-1111 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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