岐阜県不破郡関ケ原町、関ヶ原合戦で西軍の総崩れの中、中央突破で脱出を図った「島津の退き口」ゆかりの地が、関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡。小池神明神社の北、すぐ南側に開戦地がある場所で、西軍のほぼ中央に布陣しています。笹尾山に陣取った石田三成隊からは南に800mほど離れています。
島津家の存続をかけての敵中突破は、ここが起点
甥の島津豊久らと陣を構えた島津義弘陣跡周辺は、現在は小池神明神社の鎮守の森が広がる一帯。
開戦地にも近く、午前中は防御に徹し、石田三成からの援軍要請も拒否しています。
鉄砲伝来の薩摩ということもあり、1500人という少数精鋭ながら鉄砲隊を使っていますが、壕も掘らず、防護の柵も構えず、ここから東軍・騎馬隊に向かって鉄砲を交互に入れ替わりながら撃ち続けました。
島津義弘が西軍に与したのは、人情深く義理堅いその人柄からといわれ、前哨戦の伏見城の戦い(家康の家臣・鳥居元忠らの籠城戦)で、伏見城入城を拒否されたことで西軍として参戦したともいわれています(『島津家譜』によりますが、歴史的な裏付けはありません)。
敵に背は向けない、敵中突破の手段として島津義弘が用いた「捨て奸 」(すてがまり)で知られていますが、これは島津義弘(本隊)を逃すために、殿(しんがり)は死ぬまで戦って足止めし、小部隊が全滅すると次の殿がまた全滅するまで戦い抜くということを繰り返す戦法。
敵陣の中央突破を図った後にも、退路には狙撃兵を配置し、敵将を狙撃、槍で突くなどの抵抗を繰り返し、島津隊を最後まで追走した東軍の前線部隊、松平忠吉、井伊直政(徳川四天王)は重傷を負い、本多忠勝(徳川四天王)は落馬しています。
こうして島津隊は、80数名が生きて薩摩に戻っているのです。
島津義弘は傷を負わせた井伊直政に家康との仲介を依頼、それでも出頭を拒んだ島津に対して家康は3万の軍勢で島津討伐に向かわせています。
島津は薩摩に主力部隊を温存していたため、戦闘は膠着。
慶長7年(1602年)、島津家の本領安堵が決まっています。
仲介役として奔走した井伊直政は、関ヶ原合戦の傷がもとで慶長7年(1602年)、彦根城築城の最中、佐和山城で没しています。
「岐阜関ケ原古戦場記念館」では、島津義弘が着陣した陣跡から、敗戦後に島津勢が敵中突破した烏頭坂までの道程をたどる「島津義弘コース」(岐阜関ケ原古戦場記念館→決戦地→薩摩池→島津義弘陣跡→徳川家康最後の陣跡→松平忠吉・井伊直政陣跡→本多忠勝陣跡→鳥頭坂・島津豊久碑)も用意されています。
関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡 | |
名称 | 関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡/せきがはらこせんじょう・しまづよしひろじんあと |
所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1869-3 |
関連HP | 関ケ原観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR関ヶ原駅から徒歩15分 |
ドライブで | 名神高速道路関ヶ原ICから約1.5km |
駐車場 | 4台/無料 |
問い合わせ | 関ケ原観光協会 TEL:0584-43-1600/FAX:0584-43-0915 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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