妙義神社

妙義神社

白雲山、金洞山、金鶏山の3つの峰からなる、日本三大奇勝(耶馬渓・寒霞渓・妙義山)のひとつ、妙義山(群馬県富岡市)。その白雲山東麓の山腹にある古社が、妙義神社です。社伝によれば創建は宣化天皇2年(539年)という古社で、日本武尊、菅原道真、伊勢の豊受大神(とようけのおおかみ)などが祀られています。

江戸時代には神仏習合の霊山として繁栄

古代には波己曽神社(はこそじんじゃ)と呼ばれ、『三代実録』の貞観元年(859年)の条に「授上野国正六位上波己曽神従五位下」とあるのが最古の記録。
波己曽とは岩社(いわこそ)の意で、妙義山を御神体と考えた山岳信仰につながっています。
本殿の北側にある影向岩(ようごういわ)が波己曽神の降臨した磐座(いわくら)だと推測されています。
波己曽がどうして仏教的な「妙義」となったかは定かでなく、室町時代の公卿・花山院長親(かざんいんながちか)の法名・明魏に由来するという説(終焉の地が妙義山という説もあります)平安時代中期の第13代天台座主・法性房尊意(平将門の調伏にも霊験があったという高僧で、菅原道真の仏教学の師)が妙義法印であるという説などが有力です。

高田繁頼(高田城の城主・高田憲頼)が永禄10年(1567)8月、信州・塩田平の生嶋足嶋神社へ奉納した起請文に「妙儀法印」とあるのが、妙義が使われている確認されている最古のもの。

近世には上野の東叡山寛永寺の別院元光院の兼帯となって復興し、寛永寺座主輪王寺宮の隠居所となっています。

明治初年の廃仏毀釈、神仏分離まで妙義神社には別当(神社を管理する神宮寺)として上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があり、妙義神社境内は上部(随神門から先)の神域と下部(総門とその右手)の旧石塔寺寺域に分かれていました。
現在の社殿、石垣などが造営されたのは江戸時代初期から中期のことで、江戸の鬼門守護ということで幕府はもちろん、参勤交代に中山道を使う加賀・前田家など、諸大名の尊崇を受けていました。
精緻な彫刻は江戸の職人が、石垣は高遠から呼んだ石工が担当しています。

現存する黒漆塗りの本殿、幣殿・拝殿は国の重要文化財で、おしどり、うさぎ、松など自然をモチーフにした精巧な彫刻が施されており、上毛(じょうもう)の東照宮との別名も。
唐門、総門(旧石塔寺仁王門)も国の重要文化財。

扁額に「白雲山」とあるのはが、妙義山は、白雲山、金洞山、金鶏山などの総称で、妙義神社は白雲山の中腹に鎮座しているから。

また妙義山一帯は霊山ゆえに天狗信仰も根強く、天狗のお守も授与されます。

妙義神社
名称 妙義神社/みょうぎじんじゃ
所在地 群馬県富岡市妙義町妙義6
関連HP 妙義神社公式ホームページ
電車・バスで JR松井田駅からタクシーで10分、妙義神社下下車、徒歩10分で本殿
ドライブで 上信越自動車道松井田妙義ICから約2km
駐車場 道の駅みょうぎ駐車場(200台/無料)
問い合わせ 妙義神社 TEL:0274-73-2119
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
妙義神社総門(旧白雲山石塔寺仁王門)

妙義神社総門(旧白雲山石塔寺仁王門)

神仏集合時代(明治の神仏分離、廃仏毀釈まで)、妙義神社には別当(神社を管理する寺)として上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺がありました。妙義神社境内は上部(随神門から先)の神域と下部(総門とその右手)の旧石塔寺寺域に分かれますが、現在

中之嶽神社

中之嶽神社

妙義神社と同じで太古、波己曽神(はこそかみ)を祀った群馬県下仁田町の社が中之嶽神社。波己曽とは妙義の岩峰のこと。日本武尊が妙義山に登拝、欽明天皇の御代に社殿を造営と伝わります。寿永2年(1183年)には藤原祐胤が神剣を奉納しています。轟岩(

妙義山第四石門(石門めぐり)

妙義山第四石門(石門めぐり)

赤城山、榛名山(はるなさん)とともに、上毛三山(じょうもうさんざん)に数えられる、妙義山。鋸の歯のように険しい奇峰を連ねる山容は、中国の山水画を思わせます。その代表的な景勝地が妙義山第四石門。中之嶽神社(群馬県下仁田町)を起点とする登山者に

妙義山

妙義山

群馬県下仁田町、富岡市、安中市の境界に位置する岩峰群が妙義山。その特異なフォルムから霊山と崇められ、信仰の対象となってきました。山麓には、妙義神社、中之嶽神社が鎮座しています。耶馬渓 (やばけい/大分県中津市)、寒霞渓 (かんかけい/香川県

 

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