浅間山古墳

浅間山古墳

群馬県高崎市倉賀野町にある前方後円墳の浅間山古墳(せんげんやまこふん)は、墳丘長171.5mという巨大な古墳。東日本では天神山古墳(群馬県太田市/墳丘長210m)、舟塚山古墳(茨城県石岡市/墳丘長182m)に次ぐ巨大な古墳。4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定され、倉賀野古墳群の中心的な墳墓です。

被葬者にはヤマト王権との関連も

高崎市街地東南の平野部には、古墳時代初期から後期にかけての13基の古墳があり、倉賀野古墳群と呼ばれています。
消滅した古墳(佐野長山古墳)もありますが、大鶴巻古墳(墳丘長122m/国の史跡)・小鶴巻古墳(墳丘長80m)などの巨大古墳が現存しています。
築造時の5世紀初頭までを考えると、群馬県太田市の別所茶臼山古墳(宝泉茶臼山古墳/墳丘長168m)とともに東日本最大の規模を誇っています。

発掘調査などで、円筒埴輪の破片や剣形の石製模造品が確認され、表面には葺石が置かれ、円筒埴輪および形象埴輪が並んでいたと推測されています。

古墳のかたちは、奈良県奈良市の佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん=第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定)と類似しているので、ヤマト王権と被葬者との密接な関係を推測できます。
『日本書紀』などに記された、第10代崇神天皇皇子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が東国治定のために派遣され、豊城入彦命の子孫である上毛野氏(かみつけのうじ)、下毛野氏(しもつけのうじ)が上毛野国(群馬県)、下毛野国(栃木県)を支配したという伝承(ヤマト王権の東国への勢力拡大)を裏付ける古墳といえるかもしれません。

浅間山古墳
名称 浅間山古墳/せんげんやまこふん
所在地 群馬県高崎市倉賀野町
関連HP 高崎観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR高崎線倉賀野駅から徒歩20分
ドライブで 上信越自動車道藤岡ICから約7km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

天神山古墳

群馬県太田市には1605基の古墳がありましたが(群馬県でも最大数/現存は178基)、古墳時代、平坦部に、東海系の土器を使用する人々が移住したことが判明しています。天神山古墳(太田天神山古墳)は、東武伊勢崎線太田駅東方約12kmの市街地に隣接

舟塚山古墳

霞ヶ浦の湖畔、恋瀬川河口近くにある墳丘長186mの前方後円墳が舟塚山古墳で、国の史跡。茨城県最大、東日本でも天神山古墳(群馬県太田市/墳丘長210m)に次ぐ規模を誇る巨大な古墳です。5世紀後半の築造で、被葬者は初代茨城国造(いばらきのくにの

東日本の古墳 ベスト10

東日本の古墳 ベスト10

日本最大の古墳は大仙古墳(仁徳天皇陵)で墳丘長486m。東日本で最大の古墳は群馬県太田市の天神山古墳で210m。全国レベルだと26位と、巨大古墳は西日本に多いことがわかります。それでも東日本のベスト10を見てみると、ヤマト王権と東日本の首長

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ