那珂湊反射炉跡

那珂湊反射炉跡

那珂湊反射炉は、沿岸防備の強化を図るため幕末に西洋式大砲を鋳造を目的に、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)により築造された炉。江戸湾防備の品川台場に設置された大砲もここで鋳造されたものがあります。ひたちなか市のあづまが丘公園に那珂湊反射炉が復元され、茨城県の史跡に指定、経済産業省の近代化産業遺産に認定。

品川台場の大砲もここで鋳造

那珂湊反射炉跡
昭和12年再建の反射炉
那珂湊反射炉跡
レンガ焼成窯も復元

幕末の安政2年(1855年)11月に1号炉、安政4年(1857年)12月に2号炉が完成し、本格稼働しましたが、元治元年(1864年)に勃発した尊王攘夷派の反乱、天狗党の乱(元治甲子の乱)・那珂湊の戦いで破壊され、現存するのは昭和12年再建の模型。

復元模型の近くには「反射鑪遺址碑」という石碑も立っているほか、反射炉を築いた際に使用した4万枚のレンガを焼成した窯も復元されています。

那珂湊の吾妻台が選ばれたのは、地盤の強固なこと、そして水戸城下3里の近郊で、東廻り廻船の要衝で原料の鉄と燃料の石炭など物資の運搬に便利だったから。
反射炉の建設にあたっては、嘉永6年(1853年)、徳川斉昭は南部藩士の大島高任(おおしまたかとう=大島総左衛門)を技術者として招き、耐火に優れたレンガは那須郡小砂村(栃木県那珂郡那珂川町)の土と磐城産の燧石(ひうちいし)の粉末を一定の割合で混ぜ合わせて焼成しています。

南部藩の橋野高炉(岩手県釜石市橋野町)は、水戸藩の那珂湊反射炉に大砲用の銑鉄を供給するため南部藩によって建設されたもの。
橋野高炉跡は、「橋野鉄鉱山」として世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産となっています。

日本で4番目に完成した反射炉

年代的には佐賀藩(築地反射炉)、薩摩藩(旧集成館反射炉跡/世界遺産「明治日本の産業革命遺産」)、幕府直轄の伊豆韮山(韮山反射炉/世界遺産「明治日本の産業革命遺産」)に次いで4番目のもの。
安政3年(1856年)には萩反射炉(世界遺産「明治日本の産業革命遺産」)も稼働しており、諸藩で反射炉の建設が進んでいたことがよくわかります。

那珂湊反射炉跡
名称那珂湊反射炉跡/なかみなとはんしゃろあと
所在地茨城県ひたちなか市栄町1-10 あづまが丘公園内
関連HPひたちなか市公式ホームページ
電車・バスでひたちなか海浜鉄道那珂湊駅から徒歩6分
ドライブで東水戸道路ひたちなかICから約3.6km
駐車場5台/無料
問い合わせひたちなか市文化財室 TEL:029-273-0111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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