【完全攻略ガイド】水戸城

水戸城

茨城県水戸市、徳川御三家・水戸徳川家の居城、水戸城(水戸城)は、北を那珂川、南を千波湖と桜川に挟まれた、日本最大級の土造りの城。大規模な土塁と深い堀によって防御した城で、江戸時代には三階櫓が代用天守として水戸のシンボルになっていました。土塁や堀、藩校弘道館や薬医門が現存し、「日本100名城」に選定。

戦国時代には江戸氏、佐竹氏の居城だった城

水戸城
水戸城縄張り図

現在の水戸市の中心、水戸駅北側の丘陵地帯に築かれた連郭式の平山城が、水戸城。
鎌倉時代初めの建久年間(1190年〜1198年)、源頼朝配下の大掾資幹(だいじょうすけもと=馬場資幹)が、その拠点を那珂郡吉田郷から那珂川の舟運の河湊が活用できる馬場(現在の水戸)に城を構えたのが始まり。

戦国時代には、江戸通房(えどみちふさ)、江戸重通(えどしげみち)ら常陸江戸氏の居城となりました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に江戸重通は、留守を突いて佐竹義宣(さたけよしのぶ)らが攻撃するのを恐れて秀吉からの出陣要請を結果的に拒んだことで、秀吉の怒りを買います。
対する佐竹義宣は小田原攻めに参陣し、忍城の水攻めに加わったため、戦後、江戸重通に代わって馬場城に入り、常陸国の統一が許されています(後に秋田藩の初代藩主に)。

その際に馬場城を水戸城に改め(那珂川の舟運の水の玄関口で、水の戸から水戸)、居城を太田城から水戸城へと移し、さらに水戸城を大改修しています。
この改修は、一族の佐竹義久(さたけよしひさ)が担い、佐竹義宣自身は奥州へと出兵しています。

前田利家没後、石田三成が加藤清正、福島正則らによって討たれようとした際、石田三成を女輿に乗せて脱出させたのが、この佐竹義宣です。

関ヶ原合戦後、家康は息子たちを水戸城に配置

慶長5年(1600年)、家康は会津征伐の際に、諸大名に人質を差し出すように命じますが、佐竹義宣はこれを拒否し、上杉景勝に与したため、関ヶ原の戦い後に、水戸から追放され、秋田への転封が命じられています。

水戸城には代わって徳川家康の五男・松平信吉(まつだいらのぶよし=武田信吉)が入城。
ところが、松平信吉は、生来病弱であったため、21歳で死去。
代わって徳川家康の十男・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)に水戸城が与えられますが、実際には水戸には入らず、父・家康の許で育てられています。

それでも自身の息子たちを水戸に配していることから、常陸国が江戸防備の重要拠点と考えていたことがよくわかります。

さらに慶長14年(1609年)、徳川家康の十一男・徳川頼房(とくがわよりふさ)が水戸25万石を領しています。
徳川家康存命中は、徳川頼房も大御所政治を展開した駿府城(現・静岡市)で育てられていますが、家康没後に水戸城に入って常陸水戸藩の初代藩主、水戸徳川家の祖となっています。

徳川頼房は、水戸城と城下町を拡充。
二の丸に居館を構え、さらに代用天守として二の丸に内部は5階建て構造の「三階櫓」(御三階櫓)を建築(空襲により焼失した天守で、復元、再建されていないのは水戸城・御三階櫓のみ)。

国内最大級の土造りの平山城は、土塁と堀割が現存

水戸城は、那珂川沿いにある標高30mほどの上市台地を利用し、4つの曲輪(くるわ)で構成されています。
東から下の丸、本丸、二の丸(三階櫓、表御殿、奥御殿)、三の丸と続いています。

それぞれの曲輪には土塁と堀が設けられていましたが、なかでも本丸、二の丸、三の丸の北西に設けられた土塁と堀切は壮大で、国内最大級の土造りの平山城として知られています。

注目は、本丸と二の丸との間。
その掘割を利用して現在はJR水郡線が走っています。
水戸駅から水郡線に乗車すると、まず、この掘割を抜け、鉄橋で那珂川を渡るのです。

水戸城は、御三家筆頭の名古屋城、そして将軍・吉宗を輩出した和歌山城に比べて注目度も低く、貧弱なイメージがありますが、実は大違い。
水戸城の主郭は55.7haで、和歌山城の主郭部分21haの2.6倍の広さを誇っています。
しかも東西に伸びる全長は1.3kmで、大坂城2.7km、江戸城2.3km、名古屋城1.4kmに次ぐ長さを誇っています。
城下町から見上げると、かなり壮大な城郭に見えただろうことがよくわかります。

水戸城には天守がなかったといわれますが、幕府へ天守として届けた櫓がなかっただけで、代用天守としての三階櫓が二の丸にそびえていました。
外見的には3階で、内部は5階という建物で、初代の三階櫓は、明和元年(1764年)に火事で焼失。

明和3年(1766年)に再建された三階櫓は、残念ながら終戦直前の昭和20年8月2日の水戸空襲で焼失しています。
徳川御三家の名古屋城、和歌山城が西に対する備えもあって実戦的な城であるのに対し、江戸に近いこともあり、水戸城は政庁としての機能が重視された造りになっていました。

水戸城三階櫓
ありし日の水戸城三階櫓

藩校・弘道館、薬医門などが往時の雰囲気を今に伝える

水戸藩藩校だった弘道館

明治4年、廃藩置県により廃城となり、三階櫓などを除いて多くの建物が破却されました。

往時の本丸には、茨城県立水戸第一高等学校が建ち(見学目的での立ち入りは可能)、藩主が暮らした二の丸には茨城県立水戸第三高等学校、茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園などの敷地となっています(二の丸は道路以外の立ち入り不可)。

三の丸には水戸藩藩校だった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)が現存。
県庁三の丸庁舎の建つ場所もかてての三の丸です。
三の丸も水戸市立三の丸小学校の敷地部分は立ち入りができません。

橋詰門(薬医門/茨城県指定有形文化財)は、本丸跡の茨城県立水戸第一高等学校敷地に移築されて現存(銅板葺きに変更)。

本丸と二の丸の間の堀は水郡線の鉄道用地に、二の丸と三の丸の間の堀は茨城県道232号(市毛水戸線)の道路用地に転用されています。

現在、水戸城の整備計画が進んでおり、那珂川方面からの登城口である「杉山御門」、南からの登城口の「柵町坂下御門」が再生され、登城路として「水戸学の道」が整備されています。

令和2年に大手門が復元され、令和3年に二の丸角櫓、二の丸土塀(ただし鉄筋コンクリート製)が復元されています。

有名な『大日本史』編纂事業が行なわれていた旧彰考館跡には、その記念碑とともに「二の丸展示館」が設置され、水戸城からの出土遺物や水戸城に関する資料などを展示。

二の丸の三階櫓があった場所は、水戸第三高等学校になっており、目下、三階櫓の復元などの計画はありません。

『正保城絵図』に見る 水戸城

正保年間(1644年~1648年)に幕府が諸藩に命じて作成、提出させた全国各地の城郭図『正保城絵図』に見る水戸城・水戸城下は、千波湖が今に比べて巨大だったことがわかります。
面積でいうと現在の千波湖の3.8倍という規模で、水戸城南側の掘割の役目を果たしていました。

水戸城の城郭部分。西側に三の丸が配され、二の丸入口に大手門、さらに本丸、下の丸が続き、搦手側(からめてがわ=裏側)に浄光寺門が配されていました。

【完全攻略ガイド】水戸城
名称水戸城/みとじょう
所在地茨城県水戸市三の丸
関連HP水戸観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスでJR常磐線水戸駅から徒歩10分
ドライブで北関東自動車道水戸南ICから約8km。または、常磐自動車道水戸ICから約10km
駐車場周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ弘道館事務所 TEL:029-231-4725
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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