野田山・加賀藩主前田家墓所

野田山・加賀藩主前田家墓所

金沢城の南西3.5kmの野田山(標高175m)の山腹に広がるのが加賀藩主前田家墓所。天正15年(1587年)、藩祖となる前田利家(まえだとしいえ)が実兄・前田利久(まえだとしひさ)を山頂近くに葬ったのが野田山墓地の始まり。利家も野田山に葬るように遺言し、その子・前田利長が墓所を築いています。

加賀百万石の政治力を今に伝える巨大な大名墓

前田利家以降、歴代藩主とその正室、子女のほとんどは野田山の前田家墓所に葬られ(合計約80基)、前田家墓所の周囲には重臣の加賀八家(かがはっか)のうち本多家、前田長種家を除く6家(長家、前田土佐守家、奥村宗家、奥村支家、横山家、村井家)など家臣の墓が造られています。

大河ドラマ『利家とまつ』で一躍有名になった芳春院(まつ)は、加賀藩主前田家墓所と大徳寺芳春院(分骨)に眠っています。

山上にある前田家の大名墓は、土を盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)形式で、藩主の墓は3段に盛り上げた方形墳の周囲に溝がめぐらせるという独特の形。
大きさも藩祖の前田利家墓で一辺19m、他の藩主墓でも一辺16mと、他藩では類を見ない巨大な墓となっていて、江戸時代最大の大名家の政治権力を偲ばせるものとなっています。

後に金沢の町民の墓も築かれるようになって、野田山墓地が誕生したのです。
室生犀星(むろうさいせい)、鈴木大拙(すずきだいせつ)、四世嵐勘十郎(あらしかんじゅうろう)も眠る金沢市営墓地、戊辰戦争から太平洋戦争に至る戦没者の戦没者墓苑もあり、総面積は兼六園の4倍、東京ドームの10倍もあります。
加賀藩主前田家墓所は成巽閣(せいそんかく)が、戦没者墓地は石川県が管理しています。

野田山の加賀藩主前田家墓所は、富山県高岡市の前田利長墓所とともに国史跡になっています。

ちなみに二等三角点の置かれた野田山の山頂には、野田山三角点古墳という古墳が、さらに山麓には前方後円墳の長坂二子塚古墳(ながさかふたごつかこふん)あり、一帯が古代からの聖地だったことがわかります。

野田山・加賀藩主前田家墓所
名称野田山・加賀藩主前田家墓所/のだやま・かがはんしゅまえだけぼしょ
所在地石川県金沢市野田町野田山
関連HP金沢市公式ホームページ
電車・バスで金沢駅から北陸鉄道バス大桑住宅行きで25分、野田下車、徒歩8分
ドライブで北陸自動車道金沢西ICから約9.5km
駐車場あり/無料
問い合わせ金沢市文化財保護課 TEL:076-220-2469/FAX:076-224-5046
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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