鹿児島県南大隅町、大隅半島の先端・佐多岬突端の断崖から50m沖の大輪島に建つ灯台が佐多岬灯台。リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治4年10月18日に初点灯。初代の灯台は昭和20年に空襲により焼失、現在の灯台は昭和25年に再建された2代目ですが、「日本の灯台50選」にも選定。
中国と横浜を結ぶ航路を守る灯台として設置


九州の玄関口に建つ佐多岬灯台は、慶応2年(1866年)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ江戸条約によって建設を約束した8ヶ所の灯台(野島埼、観音埼、剱埼、樫野埼、神子元島、潮岬、伊王島、佐多岬)のひとつ。
西側が東シナ海、南側が大隅海峡、東側は太平洋で、佐多岬灯台は、まさに航海上の要衝で、建設当時は中国と横浜間を航行する船舶にとって重要な場所だったのです。
幕末の元治元年(1864年)、イギリスのP&O汽船会社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)が上海と開港直後の横浜の間に月2回の定期航路を開設。
翌慶応元年(1865年)にはフランス郵船(Messageries Maritimes)が上海〜横浜間に月1回の定期航路を開設、その後、アメリカの汽船会社がサンフランシスコから横浜を経て香港を開くなど、開港後の日本では近代的な灯台が急務だったのです。
明治4年になると、兵庫(神戸)〜長崎〜上海航路も始まり、幕府と江戸条約で結んだ8ヶ所の灯台は、明治新政府にとっても建設が至急の課題に。
昭和60年に無人化するまでは灯台守の孤独な生活も

イギリス政府の紹介で来日した若き技師リチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)が築いた佐多岬灯台は、明治4年10月18日(1871年11月30日)に初点灯。
当初は鉄造の灯台でした(再建後にコンクリート造りに変更)が、岬側から大輪島に海をわたるゴンドラを2基(佐多岬〜中之島、中之島〜大輪島)架設し、建設物資や人を運んだのです。
完成後は灯台守もこのゴンドラを使って、あるいは船で灯台のある大輪島に渡っています。
家族で赴任してきた灯台守の幼子は、蘇鉄の実で遊んだと手記が伝えていますが、非常に孤独な生活だったようです。
そんな灯台守の過酷な生活も、昭和60年2月21日に無人化して終焉しています。
大輪島に建つ孤高の佐田岬灯台は、本土最南端標識のある佐多岬展望所から眺望。
塔高12.6m、平均海面から灯火まで68m、光達距離21.5海里(39km)で、毎16秒に2閃光。
空襲により破壊された2代目のため、残念ながら保存灯台(明治時代に建設された現役の灯台のなかで、歴史的・文化財的価値が高いものを海上保安庁が選定)には数えられていません。
灯台守の妻の手記「黒潮と戦い十年間~集約管理を目前にして~」
「ネコの仔1匹来ないようなこんなさびしいところに何年いるのだろうか? ヨチヨチと歩く何も知らない子どもが、毎日赤いソテツの実を持って遊んでいるうちに、次の子が生まれ4人家族となりました。この子どももミルクで育てなければならない。隣部落まで40分、山道を子どもを背負ったり歩かせたりしてミルクを買いに行きました。20歳で岬へ来た私、10年間苦労を乗り越えてきた今日、顔はしわだらけ、本当の年を当てる人は一人もおりません」
駐車場横、「佐多岬観光案内所」に展示される灯台守の妻、柿山アツ子さんによる手記。
生後6ヶ月の子どもを伴って長崎から赴任。
| 佐多岬灯台 | |
| 名称 | 佐多岬灯台/さたみさきとうだい |
| 所在地 | 鹿児島県肝属郡南大隅町佐多馬籠417 |
| 関連HP | 南大隅町観光協会公式ホームページ |
| 電車・バスで | 根占から鹿児島交通の佐多岬行きバスで45分、佐多岬下車、徒歩15分 |
| ドライブで | 東九州自動車道野方ICから約80km |
| 駐車場 | 佐多岬駐車場(40台/無料) |
| 問い合わせ | 佐多岬観光案内所 TEL:0994-27-3151 |
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