西郷隆盛生誕の地

西郷隆盛生誕の地

大久保利通(薩摩藩出身)、木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎/長州藩出身)とともに「維新の三傑」といわれたのが西郷隆盛。文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下の加治屋町山之口馬場(下加治屋町=現・鹿児島市加治屋町)に生誕。西郷隆盛生誕の地には立派な石碑が立っています。

下加治屋町(鹿児島市加治屋町)に「西郷隆盛君誕生の地」碑が立つ

西郷隆盛と弟・従道が青年時代までを過ごした場所は、JR鹿児島中央駅から徒歩10分の鹿児島市街の中心地です。

父・西郷吉兵衛隆盛は、禄高47石という薩摩藩の下級藩士(御勘定方小頭)。
生誕地の下加治屋町は城下町の一角ですが鶴丸城からは少し離れた、下級武士の住宅街があった場所です。
嘉永6年(1853年)2月に家督を相続するも、ペリーが浦賀に来航した時点での禄高は41石というものでした。

園地として整備されたなかに「西郷隆盛君誕生の地」と刻まれた石碑が立っています。
西南戦争後、明治10年2月25日に官位を褫奪(ちだつ)され、賊軍の将となった西郷隆盛でしたが、明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で正三位を追贈され、それを機に従兄弟の大山巌(おおやまいわお)たちが敷地を購入して石碑を建立したもの。
こうして鹿児島には南洲翁終焉之地の碑(鹿児島市城山町)と「西郷隆盛君誕生の地」という終焉と誕生、2つの碑が残されているのです。

隣接して鹿児島の歴史が一目でわかるという「維新ふるさと館」が建っています。

西郷隆盛生誕の地
名称西郷隆盛生誕の地/さいごうたかもりせいたんのち
所在地鹿児島県鹿児島市加治屋町
関連HP 鹿児島観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスでJR鹿児島中央駅から徒歩10分
ドライブで鹿児島東西幹線道路田上ICから約4km
駐車場なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ鹿児島市観光振興課 TEL:099-216-1327
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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