奈良県吉野郡吉野町、吉野山の金峯山寺蔵王堂の前の玉垣に囲まれた一画は、鎌倉幕府倒幕の元弘の乱で大塔宮(おおとうのみや=護良親王・もりよししんのう/後醍醐天皇の皇子)が蔵王堂を本陣として山上の城塞化を押し進めた吉野城本陣の跡。
大塔宮(護良親王)が置いた吉野城の本陣跡
元弘2年(1332年)、鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こした後醍醐天皇に呼応し、村上義光らとともに吉野山に籠もった大塔宮(直前に十津川で還俗し護良親王に)は、ここを本陣として北条方(鎌倉幕府軍)と対峙。
笠置山の落城後、熊野を目指しますが、熊野三山の別当・定遍僧都(じょうへんそうず)が鎌倉幕府寄りだったことで、熊野入りを断念し、天然の要害である吉野山を籠城先に決めたのです。
元弘3年、北条方(鎌倉幕府軍)6万の大軍に囲まれ、金峯山側(現在の上千本)から攻略され吉野城落城となった際、最後の酒宴を催し、村上義光と別れた場所も、この蔵王堂の前。
村上義光は大塔宮の鎧兜を借りて身代わりとなって現在の蔵王堂前の石段あたりにあった二天門の高櫓で自刃。
大塔宮は首尾よく吉野山を脱出することに成功し、高野山へと逃れています。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、千種忠顕、足利尊氏などの諸将を従え、ついに鎌倉幕府を倒し、建武の新政が実現、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛しています。
「蘇りの地」(よみがえりのち)といわれる吉野山ですが、護良親王は見事に窮地を脱して、蘇ったといえるでしょう。
後醍醐天皇が建武の新政に失敗し、吉野に逃れ、南朝を樹立するのは、吉野山での護良親王の籠城戦が念頭にあったのは確実です。
要害、山城としての遺構はあまり多くありませんが、吉野山にはかつて吉野三橋といわれる橋があり、それぞれ吉野城の空壕を越えるための橋でした。
丈之橋(吉野水分神社近く)はすでに存在せず、ロープウェイ吉野山駅の近くにある大橋、、竹林院、旅館「太鼓判」(うなぎ「太鼓判」)近くの天王橋は、コンクリートですが現存。
大橋を渡る際には、空壕であることの確認を、ぜひ。
高城山展望台のある高城山は、吉野城の詰城と伝えられています。
四本桜(大塔宮吉野城本陣跡) | |
名称 | 四本桜(大塔宮吉野城本陣跡)/しほんざくら(だいとうのみやよしのじょうほんじんあと) |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498金峯山寺境内 |
関連HP | 金峯山寺公式ホームページ |
電車・バスで | 近鉄吉野線吉野駅から徒歩40分。または、ロープウェイ吉野山駅から徒歩10分 |
ドライブで | 西名阪自動車道郡山ICから約34km |
駐車場 | 下千本駐車場(100台/観桜期は有料) |
問い合わせ | 金峯山寺 TEL:0746−32−8371/FAX:0746−32−4563 |
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