奈良県奈良市山陵町にある墳丘長207mという巨大な前方後円墳が、佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)。宮内庁から狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)ですが、として垂仁天皇(すいにんてんのう)皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと=景行天皇の母)の陵に治定されています。
古墳時代前期に築かれた大王墓
ヤマト王権の大王墓を含む佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)の1基で、すぐに西側に接して築かれている佐紀石塚山古墳のくびれ部に佐紀陵山古墳の後円部がくい込んだ配置に。
2基の巨大な前方後円墳が近接して並列するという異色の地で、佐紀陵山古墳が築かれた後に、佐紀石塚山古墳が築かれたことがわかります。
佐紀盾列古墳群(佐紀古墳群)は、奈良盆地東南部の大和古墳群、大阪平野で世界文化遺産に登録される古市古墳群・百舌鳥古墳群と並ぶ大古墳群。
古墳時代前期後葉の五社神古墳(ごさしこふん)に始まり、佐紀陵山古墳、佐紀石塚山古墳、市庭古墳、ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳と、古墳時代前期から中期にかけて造営された墳丘長200m以上の巨大前方後円墳が多数築かれています。
佐紀盾列古墳群(佐紀古墳群)では、巨大古墳のすべてと一部の陪塚、大型前方後円墳が陵墓もしくは陵墓参考地として宮内庁の管理を受けています。
佐紀陵山古墳は、幕末まで神功皇后陵とされていましたが、明治の初めに垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)陵に治定替えされ、現在に至っています。
日葉酢媛命を皇后とした垂仁天皇は、考古学上、仮に実在したとすれば3世紀後半〜4世紀前半ごろの大王です。
『日本書紀』に記される埴輪のルーツ説
『日本書紀』によれば、后である日葉酢媛命は、その葬儀に際して、陵墓の境界に臣下を生き埋めにする殉葬の風習を改め、野見宿禰(のみのすくね)が出雲国の土部(はにべ)100人を呼び寄せ、生きた人間の代わりに埴土(はにつち)で造った埴輪を埋納するように進言したと記されています。
『日本書紀』によれば、日葉酢媛命の陵墓が埴輪の起源ということに。
佐紀陵山古墳が日葉酢媛命の墳墓であるかは判明していませんが、後円部には円筒埴輪が並び、家型埴輪なども配されていました。
伝承の人物埴輪などは出土しておらず、学術的にも埴輪は人を埋め立てる代替手段ではなく、死者の霊を祭祀するものと考えられているので、『日本書紀』のつくられた時代にはすでに埴輪の起源が忘れ去られていたか、あるいは意図して伝説を創作したということになります。
養老4年(720年)に完成した『日本書紀』ですが、6世紀半ばの仏教の伝来などにより、古墳が築かれなくなったことで、埴輪を制作する土部が職を失いつつあったため、こうした伝説を創作したとする説もあります。
佐紀陵山古墳 | |
名称 | 佐紀陵山古墳/さきみささぎやまこふん |
所在地 | 奈良県奈良市山陵町325 |
関連HP | 奈良市公式ホームページ |
電車・バスで | 近鉄平城駅から徒歩5分 |
問い合わせ | 奈良市埋蔵文化財調査センター TEL:0742-33-1821/FAX:0742-33-1822 |
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