大分県東国東郡姫島村、豊後水道北側入口にある姫島で製塩業営み、明治4年の廃藩置県まで12代250年にわたって庄屋を務めた旧家が、姫島庄屋古庄家(ひめしましょうやこしょうけ)。現存する建物は、第11代・古庄逸翁(こしょういつおう)が天保13年(1842年)から33年の歳月を費やして完成したもの。
姫島で代々製塩業・庄屋を営んできた旧家
550坪の敷地に2階建て、寄棟造り、建坪は129坪の主屋が建っています。
庭園、賓客を迎える御成の間、藩主などの賓客の駕籠を下した際に使った庭の大石など、庄屋らしい造りが現存。
屋根は、現在はすべて瓦葺きですが、かつては屋根の一部は麦藁を葺いた茅葺き屋根(「ムギカラ屋根」)でした。
7代・古庄拙翁(こしょうせつおう)は、寛延3年(1750年)に入浜式塩田を開設し、さらにサツマイモ栽培を導入。
現存する建物を建てた第11代・古庄逸翁(こしょういつおう)は、天保12年(1841年)に沖の波止を建設しています。
敷地内には、明治37年に開局した旧郵便局舎も残されています。
伊藤博文や勝海舟が訪れたともいわれています。
幕末の元治元年(1864年)、長州藩は、英・仏・蘭・米の四ヶ国連合軍と馬関戦争(下関戦争)を戦っていますが、英・仏・蘭・米の四ヶ国連合軍の軍艦17隻は、姫島西浦沖に集結し、ここを拠点として関門海峡に入り、長州藩の砲台を艦砲射撃したのです。
砲撃の数週間前、イギリスに渡航から戻された長州藩の伊藤博文と井上馨は、姫島を訪れ、さらに幕府の軍艦奉行・勝海舟は、軍艦「順道丸」で姫島の観音崎に上陸し、状況を確認しています。
慶応元年(1865年)、幕府は第二次長州征伐のため、姫島に石炭の貯蔵庫を作り、軍艦が石炭の搭載に立ち寄っていますが、長州藩の奇兵隊が攻撃し、石炭を貯蔵していた5棟の倉庫は4ヶ月間も燃え続けたのだとか(石炭の燃えがらが姫島庄屋古庄家に展示されています)。
姫島の玄関口・姫島港へは伊美港(国東市)から姫島村営フェリーで20分。
姫島庄屋古庄家 | |
名称 | 姫島庄屋古庄家/ひめしましょうやこしょうけ |
所在地 | 大分県東国東郡姫島村957-2 |
関連HP | 姫島村公式ホームページ |
電車・バスで | 姫島港から徒歩10分 |
ドライブで | 宇佐別府道路宇佐ICから約41kmで伊美港、フェリーで姫島へ、姫島港から約5.8km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 姫島村水産・観光商工課 TEL:0978-87-2279 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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