別府公園・油屋熊八の碑

別府公園・油屋熊八の碑

大分県別府市別府、別府駅から西へ徒歩15分ほどの別府公園にあるのが、油屋熊八の碑(あぶらやくまはちのひ)。油屋熊八は、明治44年に別府に亀の井旅館を創業、昭和3年、亀の井自動車(現在の亀の井バス)を創業するなど、別府が国際的な温泉保養地に発展する基礎を築きました。

別府観光の父・別府の恩人と慕われる油屋熊八とは!?

別府公園・油屋熊八の碑

油屋熊八は、文久3年7月16日(1863年8月29日)、伊予国宇和島(現・愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋に生誕(墓は宇和島の光國寺にあります)。
弱冠26歳で町制施行の第一期町議会議員に当選、朝鮮への米事情の視察などで日本と清国の間の戦争を予感し、30歳の時に大阪へ出て、堂島で米の相場師となります。

明治27年、熊八の予想通りに日清戦争が勃発、米の先物取引(1ヶ月から6ヶ月先の価格を現時点で約束するという投機的な取引)により60万円(現在の数十億円)を手にする大成功を収め、「油屋将軍」とまでいわれる羽振りの良さとなります。

ところが、日清戦争後に相場に失敗、一夜にして困窮し、太平洋航路の3等切符を買ってアメリカへ渡り、聖公教会のクリスチャンの洗礼を受けています。

明治41年頃、別府の佐藤家に移り住み、佐藤家が借してくれた小さな家で旅館を営みますが、これが亀の井旅館(本妻はユキ、愛人の名が亀井タマエで、宿名は亀井タマエから)。
木造2階建て、1階には8畳と6畳、2階に6畳、3畳という小さな宿が出発点でした。
「旅館をやるから家を貸してくれと云うのです。私の家は二階が二間、下が二間、それに離れがあったのですが、その二階建ての方を提供して」(陰ながら支えた佐藤通の言葉)という状況でした。

別府を再起の場に選んだ背景には、明治44年には日豊線(現・日豊本線)小倉駅〜大分駅が開通、明治45年の大阪商船の大阪〜別府航路開設もあったと推測できます。

別府温泉で再起を図る油屋熊八のモットーが、「旅人を懇ろ(ねんごろ)にせよ」(Don’t forget to show hospitality)。
アメリカで出会った日系人牧師から教授された新約聖書に書かれた一説で、心を込めたもてなしこそが大切という教えです。

大正10年、由布院・金鱗湖畔に建設した迎賓館的な施設が現在の亀の井別荘の前身です。
大正13年、亀の井旅館を洋式ホテルに改装して亀の井ホテルを開業と、徐々に別府でもその才覚を花開かせています。

「地獄めぐり」、定期観光バスを発案した油屋熊八の記念碑

大正時代に、別府での足がかりを築いた油屋熊八は、政治家・宇都宮則綱(うつのみやのりつな/大正13年、別府市会議員に、戦後は衆議院議員を1期務めた後、鬼山ホテルを創業)、児童文化振興に尽くした梅田凡平(大正8年、京都から別府に移住、元舞鶴銀行の支店長でクリスチャン)とともに大正9年、別府宣伝協会を設立(大正13年、亀の井ホテルという洋式ホテル開業に合わせ、別府温泉宣伝協会に改称)。

亀の井ホテルの開業、別府温泉宣伝協会との改称は、リッチ層の誘客のみならず、外国人観光客の招致も念頭にありました。
別府温泉宣伝協会と改称した大正13年には「日本のアンデルセン」と呼ばれた児童文学者・久留島武彦の活動に共鳴し、「別府お伽倶楽部」を創設。
夏休みを利用して、大阪商船の汽船(これを「お伽船」と呼びました)に乗船するお伽倶楽部の子どもたちを、別府港で盛大に出迎えると、耶馬渓や宇佐神宮などに案内し、「子どもたちをあいしたピカピカのおじさん」(別府駅前の銅像に刻まれた言葉)と呼ばれるように。

別府港の桟橋整備も大阪商船の本社に乗り込んで、直談判して実現させ、別府港への就航を毎日とするなど、交通の便も改善させています。

「山は富士、海は瀬戸海、湯は別府」というキャッチコピーを思いつき、大正14年、標柱にして富士山頂に立てるなど、全国的な宣伝活動を展開しています。

昭和2年、大阪毎日新聞が「新日本八景」の人気投票を実施した際には、大量に葉書を買い込み、別府市民に投票を依頼。
見事1位になると、なんと水上飛行機をチャーターし、関西上空から「当選御礼、別府温泉」というチラシを撒いています。

その勢いに乗って昭和2年、25人乗りの大型バス4台購入、昭和3年1月10日、亀の井自動車(現・亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによるガイド付き定期観光バスの運行を開始しています。
「別府地獄めぐり」と「遊覧バス」も定期観光バスの運行に伴って、油屋熊八が生み出した観光企画でした。

このほかにも、九州横断道路(やまなみハイウェイ)の原型となる、別府~湯布院~くじゅう高原~阿蘇~熊本~雲仙~長崎間の観光自動車道を提唱、別府ゴルフリンクスを開設し、温泉とゴルフの組み合わせを実現、温泉マークを普遍化するなど、様々なアイデアを生み出した、稀代(きたい)の観光プランナーだったことがわかります。

昭和10年3月24日に没。

別府公園・油屋熊八の碑
名称 別府公園・油屋熊八の碑/べっぷこうえん・あぶらやくまはちのひ
所在地 大分県別府市野口原3018-1
関連HP 別府市公式ホームページ
電車・バスで JR別府駅から徒歩15分
ドライブで 東九州自動車道別府ICから約4.8km
駐車場 東駐車場(360台/1時間まで無料、以降有料)、北駐車場(100台/1時間まで無料、以降有料)
問い合わせ 別府市公園緑地課 TEL:0977-21-1473/FAX:0977-22-9478
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
別府公園

別府公園

大分県別府市野口原、別府市役所のすぐ南、青山通りと富士見通りに挟まれた27.3haという広大な都市公園(総合公園)が、別府公園。昭和52年、昭和天皇御在位50年記念公園の指定を受け、別府公園として整備されたもの。昭和4年の『中外産業博覧会』

 

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